神が宿るところ

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平将門赦免供養之碑

2012-09-22 23:02:37 | 史跡・文化財
平将門公赦免菩提供養之碑(たいらのまさかどこうしゃめんぼだいくようのひ)。
場所:茨城県常総市蔵持552-5付近。県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約850mのところで右折(西へ)して狭い道に入る。約100m進むと、「蔵持公民館」の前にある。公民館に駐車スペースあり。
「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長5~7年(1253~1255年)銘の板碑は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が民政安定のために当地の先霊を慰めるべく豊田四郎将基(伊勢平氏の祖・平貞盛の4世の孫。鎮守府副将軍となり、豊田郷を領した。)の供養碑を建てた。このとき、平将門公の祭祀がきちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得、下総国守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門公を赦免し霊を供養する板碑の建立を命じたものとされる。これらの板碑は、元々は神子女字引手山(前項の「六所塚古墳」の東側、鬼怒川右岸の台地)にあったが、洪水により埋まっていたものが昭和5年の河川改修工事で掘り出されたものという。「神子女(みこめ)」という変わった地名は元々「御子埋」であって、平将門公一族の墳墓の地を称したと伝えられている(現在、「平親王将門公一族墳墓之地」という石碑が建てられている。)。
掘り出された板碑は4基あり、3基は蔵持の「観音堂・阿弥陀堂」脇に、1基は新石毛にあった「妙見寺」境内に安置されたが、「妙見寺」が廃寺になったので「壽廣山 観音院 西福寺」に移設された(いずれも常総市指定文化財)。蔵持の板碑は「不動石」・「阿弥陀石」と呼ばれて、それ自体が信仰の対象となっており、「西福寺」の板碑も、江戸時代に運び出そうとしたところ夜中に火炎を噴出したため「炎石」という別名がある。また、この板碑を縄で縛ると病気が快癒するともいう。
これらの板碑は、平将門公が東国で人気を集めていたことの証拠であろうが、それにしても赦免を受けるまで300年以上かかったとは・・・。


常総市のHPから(蔵持建長銘石碑)

同上(西福寺の建長銘板碑)

JA常総ひかりのHPから(浄土宗、西福寺)


写真1:「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長年間の銘がある板碑が並んでいる。


写真2:これらの板碑は「観音堂・阿弥陀堂」(向って右)と「大師堂・お釈迦堂」(左)の脇にある。


写真3:板碑の西、約200mのところにある「香取神社」。この裏山に「蔵持城」という中世の城があったという。


写真4:「壽廣山 観音院 西福寺」(場所:茨城県常総市新石下1034)。浄土宗の寺院だが、境内の池に島を設え、88ヵ所の小堂を建てて四国八十八ヵ所霊場巡拝ができるようになっている。


写真5:「西福寺」入口のすぐ左にある建長銘板碑。別名「炎石」
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