茂侶神社(もろじんじゃ)。
場所:千葉県松戸市小金原5-28。松戸北郵便局前(西側)の道路から2本西に入る。駐車場なし。
当神社の創建も不詳であるが、式内社「茂侶神社」の論社の1つで、祭神は大物主命。現在の千葉県北西部の台地に、江戸時代には幕府の広大な軍馬の放牧場(小金牧)があり、その中心が松戸市小金原だった。その小金牧に隣接して水戸徳川家の鷹場が設けられ(現在の小金原2~3丁目、通称「西新田」付近に水戸藩の御鷹場役所があったという。)、寛永19年(1642年)にはテレビドラマ「水戸黄門」で有名な徳川光圀が当地で鷹狩りをしたとの記録もある。この縁で、光圀から、当神社が式内社「茂侶神社」であることを認められたという。光圀は「大日本史」の編纂を始めたことでも知られるが、その編纂姿勢は、出典を明らかにするなど実証的なものだった。したがって、当神社を式内社「茂侶神社」であるとするについて、何らかの根拠があったとも思われるのだが、残念ながら何も伝えられていないようである。これが光圀でなかったら、単に、自領内に由緒ある式内社があることを自慢したかっただけなのだろうと思ってしまうところだが・・・。
さて、当神社は、式内社「茂侶神社」の論社としては論拠が少なく、旗色が悪い。もともと現・江戸川の下流域は古墳などが少ない地域で、千葉県流山市・市川市に、ある程度の規模の前方後円墳がみられる程度である。祭神の大物主命は大国主神・大己貴命と同神であるとされ、国土開発の神であるから、広大な北総台地開発の守護神として勧請したとも考えられるが、江戸時代に牧が置かれたように、必ずしも開発が進んだ地域ではなかったと思われる。一説によれば、当神社は、「茂侶神社」と称する以前は「香取明神」と呼ばれていたという。
玄松子さんのHPから(茂侶神社(松戸市))
写真1:「茂侶神社」一の鳥居。傍らの石碑に、当神社が黄門義公(徳川光圀)に式内社「茂侶神社」と認められ、水戸家から祭典料を供せられたことなどが記されている。
写真2:二の鳥居
写真3:本殿
場所:千葉県松戸市小金原5-28。松戸北郵便局前(西側)の道路から2本西に入る。駐車場なし。
当神社の創建も不詳であるが、式内社「茂侶神社」の論社の1つで、祭神は大物主命。現在の千葉県北西部の台地に、江戸時代には幕府の広大な軍馬の放牧場(小金牧)があり、その中心が松戸市小金原だった。その小金牧に隣接して水戸徳川家の鷹場が設けられ(現在の小金原2~3丁目、通称「西新田」付近に水戸藩の御鷹場役所があったという。)、寛永19年(1642年)にはテレビドラマ「水戸黄門」で有名な徳川光圀が当地で鷹狩りをしたとの記録もある。この縁で、光圀から、当神社が式内社「茂侶神社」であることを認められたという。光圀は「大日本史」の編纂を始めたことでも知られるが、その編纂姿勢は、出典を明らかにするなど実証的なものだった。したがって、当神社を式内社「茂侶神社」であるとするについて、何らかの根拠があったとも思われるのだが、残念ながら何も伝えられていないようである。これが光圀でなかったら、単に、自領内に由緒ある式内社があることを自慢したかっただけなのだろうと思ってしまうところだが・・・。
さて、当神社は、式内社「茂侶神社」の論社としては論拠が少なく、旗色が悪い。もともと現・江戸川の下流域は古墳などが少ない地域で、千葉県流山市・市川市に、ある程度の規模の前方後円墳がみられる程度である。祭神の大物主命は大国主神・大己貴命と同神であるとされ、国土開発の神であるから、広大な北総台地開発の守護神として勧請したとも考えられるが、江戸時代に牧が置かれたように、必ずしも開発が進んだ地域ではなかったと思われる。一説によれば、当神社は、「茂侶神社」と称する以前は「香取明神」と呼ばれていたという。
玄松子さんのHPから(茂侶神社(松戸市))
写真1:「茂侶神社」一の鳥居。傍らの石碑に、当神社が黄門義公(徳川光圀)に式内社「茂侶神社」と認められ、水戸家から祭典料を供せられたことなどが記されている。
写真2:二の鳥居
写真3:本殿