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船橋地名発祥の地

2012-12-08 23:48:11 | 史跡・文化財
船橋地名発祥の地(ふなばしちめいはっしょうのち)。
場所:千葉県船橋市本町1丁目と宮本4丁目の間にある海老川に架かる「海老川橋」。「船橋大神宮」(式内社「意富比神社」)西参道入口にある「大神宮下」交差点の西、約200m。駐車場なし。
かつて、この付近を出入口として奥に膨らんだ「夏見入江」あるいは「夏見潟」という入江があった。古代にはかなり広大で、概ね、現在のJR総武本線の線路の北側から夏見台地まで広がっており、現在は公園となっている「天沼弁天池公園」は、その名の通り元は池で、夏見入江の最後の名残りであったらしい。「大神宮下」交差点から北に延びている道路は、入江の東の岸辺を通る古道の跡であるともいう。現在の本町付近は東西に延びた砂洲の上にあり、古代には下総国府(現・市川市)と上総国府(現・市原市)を結ぶ官道(古代東海道の支路)が通っていた。
そして、その官道の現・本町側と現・宮本側の間にあった入江の出入口に「舟橋」が架けられていたことから、「船橋」という地名が起こったとされているのである。「舟橋」というのは、並べた舟の上に板を架け渡して川などを渡れるようにした橋のことである。もちろん、この地名の由来は伝説に属するが、ここに官道が通っていたことは確かなようであり、舟橋が架けられていなかったとはいえないだろう。
ところで、本町側の入江西岸に徳川家康の「船橋御殿」があった。家康は鷹狩りを好み、そのための休憩所や宿泊所を各地に建てたが、その1つが「船橋御殿」である。「船橋御殿」の敷地は1万坪もあったというが、現在その中心地であったといわれるところに日本一小さいという「東照宮」が鎮座している。家康は慶長19年(1614年)または元和元年(1615年)に現・千葉県東金市での鷹狩りに行く途中で「船橋御殿」に泊まったが、それが最初で最後であったらしい。その後、2代将軍秀忠が何度か利用したが、寛文11年(1671年)には廃され、貞享年間(1684~1688年)には式内社「意富比神社」(船橋大神宮)の社家である富氏に与えられた。しかし、「船橋御殿」の地には元々、富氏の屋敷があり、毎日海老川を渡って「船橋大神宮」に通っていたといわれる。最初は、富氏の屋敷が家康の宿泊所となり、富氏が接待したということらしい。したがって、富氏と家康の間にどういう遣り取りがあったか不明だが、富氏が「船橋御殿」を献上し、その廃止後、返還されたということになる。「船橋東照宮」は、「船橋御殿」返還後に富氏が建てたものという。なお、「船橋御殿」の北側に、中世には「安養寺」という天台宗の寺院があったというが、一説に元は律宗だったというので、あるいは中世以前からあった古寺の可能性はないだろうか。因みに、現「船橋大神宮」の北側に真言宗豊山派「船橋山 清浄心院 西福寺」があるが、この寺院は鎌倉時代の創建といい、境内にある大きな石造の五輪塔と宝篋印塔は鎌倉時代後期のものという。この五輪塔等は、元は「船橋御殿」の北側にあったものというから、宗派は変わっているが、「西福寺」は「安養寺」の後身かもしれない。
さて、「常陸国風土記」(養老5年:721年成立)に、行方郡大生の里(現・茨城県潮来市大生)について、「倭武(ヤマトタケル)の天皇が相鹿の丘前宮(おかさきのみや)に留まられたとき、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建て、小舟を繋いで橋として行宮に通った。大炊(おほひ)に因んで大生(おほふ)と名付けた。」という趣旨の記述がある。大生は、神武天皇の子の神八井耳命(カムヤイミミ)を祖とする古い氏族である「多氏」が居住したところといわれている(なお、同地にある「大生神社」は、地元では「鹿島神宮」の元宮であるとしている。)。「船橋大神宮」の宮司である富氏(現在は千葉氏に改姓)は、多氏の一族であるとされる。「常陸国風土記」の上記の記述は、「船橋」地名発祥の伝承とあまりに似ている。当地にも、古代に「多氏」が居て、式内社「意富比神社」を奉祭したという可能性も無いとはいえないが、中世頃に「船橋大神宮」の権威を更に高めるため、「常陸国風土記」の「おほひ」と「船橋」というキーワードから、わが国最古の皇別氏族である「多氏」と結びつけたのではないかとも思われる。


写真1:海老川に架かる「海老川橋(長寿の橋)」に「船橋地名発祥の地」と記されている。


写真2:同上。船の舳先のモニュメントも設置されている。


写真3:船橋御殿跡(船橋東照宮)(場所:千葉県船橋市本町4-29-12付近)。祭神:東照大権現 


写真4:「西福寺」にある石造の五輪塔と宝篋印塔(場所:千葉県船橋市宮本6-16-1)。県指定有形文化財


写真5:船橋市中央卸売市場内にある「将門の松」の碑(場所:千葉県船橋市市場1-8-1。正門(東側)入って直ぐ)。かつて、ここに大きな松の木があり、その根元に平将門が休んだという伝説がある。当地は「城の腰」という地名で、これは一般名詞では出城や出丸をいうが、夏見入江の東岸から張り出した岬のような場所だったらしい。「城」が訛って「将」になり、将門が腰掛けた場所と付会して、「将門の松」の伝説ができたのだろうという。


写真6:天沼弁財天公園の北東端にある「乳沼弁財天」(場所:千葉県船橋市本町7-16)。道路(北側)に面して石鳥居があるが、石祠は南向きなので、参拝のためには石鳥居を潜って廻り込むことになる。
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