神が宿るところ

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蛟蝄神社(下総国式内社・その11)

2013-01-05 23:30:31 | 神社
蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)。
場所:茨城県北相馬郡利根町立木882。千葉県側からは栄橋で利根川を渡り、茨城県道4号線を北東に向かう。「横須賀」交差点から東へ約1.8kmで「門の宮」。「奥の宮」は、更に東に約700m。いずれも駐車場あり(ただし、「奥の宮」の駐車場は狭い道を上るので注意。)。
社伝によれば、孝霊天皇3年(紀元前288年)に水神である罔象女大神(ミツハノメ)を現在の「門の宮」の場所に祀ったのを創始とする。文武天皇2年(698年)には、土神である埴山姫大神(ハニヤマヒメ)を合祀して、現在の「奥の宮」に遷座したという。古代には、当神社の東には広大な内海「香取海」が広がっており、当神社の辺りは西から流れてきた川(古鬼怒川?)の河口に当たっていたらしい。「蛟蝄」というのは竜の一種である「ミツチ」で、川の水の流れに当神社の名の由来があるようである。因みに、主祭神である「ミツハ(ノメ)」の語源は、ミは水、ツは助詞、ハはハハ(ヘビの古語)であるともいう。また、後にハニヤマヒメが合祀されたというのは、「ミツチ」を「ミ」(水)と「ツチ」(土)と解して、水神と土神を祀ったものではないかと考えられている。その意味では、当神社は農業神のようだが、当神社が式内社として尊崇されたのは、「香取海」の水上交通の安全の守護神でもあったからではないかとも思われる。更に、下総国から常陸国に向う古代東海道が当神社の付近を通っていた可能性が高く、その意味では、当地が交通の要衝であったのかもしれない。
ところで、当神社は近世には「文間(もんま)大明神」と呼ばれていた。これは、「蛟蝄」が「蚊虻(ぶんもう)」となり、更に「文間」と訛ったものといわれている(冗談のようだが、古文書にも証拠があり、どうやら本当らしい。)。ここから、地名となり(旧「文間村」)、現在も当神社の北にある「文間小学校」などの名に残っている。また、当神社の鎮座地は「立木(たつぎ)」(旧「立木村」)というが、これは、かつて日本武尊が東征のとき、当神社に戦勝祈願をしたとされ、「文馬」(装飾した馬)を立ち木に繋いだところに起源があるという。これはコジツケだろうが、日本武尊の名がでてくることには何らかの意味があるようにも思われる。ところで、当神社では、この「文馬」を記念して、「うまく行く守り」を頒布している。きれいな馬と9つの蹄鉄が描かれており、馬(うま)九(く)行くというわけである。


蛟蝄神社のHP

「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHPから(蛟蝄神社門の宮)

同上(蛟蝄神社奥の宮)


写真1:「蛟蝄神社・門の宮」鳥居。向って右側に「立木貝塚」の説明板も立てられている。土偶等も出土しており、貝塚は、古代には単なるゴミ捨て場ではなく、祭祀の場所でもあったと考えられるようになってきた。


写真2:同上、社殿


写真3:同上、境内の神木のイチョウ(鳥居の向って左側)。あるとき、この木を伐ろうとしたところ、切り口から血が流れたことから、伐るのを止めたという。


写真4:「蛟蝄神社・奥の宮」参道石段


写真5:同上、鳥居


写真6:同上、社殿
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