神が宿るところ

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下総国府

2013-01-12 23:18:39 | 史跡・文化財
下総国府(しもふさこくふ)。
場所:千葉県市川市国府台。
下総国の国府域は確定されてはいないが、和名抄に「国府在葛餝郡」とあり、現在も「国府台(こうのだい)」という地名が残る、いわゆる国府台台地(標高約22m)一帯にあったことは確実視されている。かつて、国府域は一般に方8町(=約873m四方)として造られたとされたが、各地の調査が進むにつれて、地形的な制約を受けて必ずしも方8町とは限らないことがわかってきた。国府台台地も東西が狭く、今、測ってみると700m~750mくらいである。また、「和洋女子大学」構内での発掘調査で、国府関連施設と思われる掘立柱建物など建物跡多数が発見されたほか、敷地の中心付近を南北に走る溝と道路跡が検出された。この道路が常陸国に向う古代東海道であった可能性が高く、国府の西端を画するものであったものと思われる。そうすると、国府は方6町(約654m)程であったことが想定される。ただし、「国府台台地」の先端から東に延びている「須和田台地」(現在は独立した台地になっているが、かつては「国府台台地」と一体だった。)にも国府関連施設が建ち並んでいたらしい。「須和田遺跡」は弥生時代中期から平安時代に亘る住居集落跡であるが、国博士の居館を示す「博士館(はかせのたち)」という墨書のある土器が出土しているという。これらの含めた発掘調査等によって、市川市教育委員会「図説市川の歴史」(平成18年2月)では、現在の「弘法寺」の東側に「葛飾郡家」があったと推定している。
さて、国府の中心施設である国庁はどこにあったのか。国府台は明治時代以降の軍用施設建設等で遺跡が大きく破壊されており、今後も発掘調査等で明確な位置が判明することは期待薄のように思われる。通説では、下総国庁は現在の「国府台公園」(スポーツセンター)の入口付近から、その東側にある野球場付近にあったといわれている。この付近には「府中」という小字があり、下総国の総社である「六所神社」(次項)の旧鎮座地の南西にある(つまり、「六所神社」は国庁の鬼門(北東)除けとなっている。)ということもあって、確かに有力だろうと思われる。


市川市のHPから(国府台公園)

同(須和田遺跡)


写真1:市川市「国府台公園」入口(場所:市川市国府台1-6。駐車場有り。)


写真2:同「須和田公園」(場所:市川市須和田2-34。駐車場なし)。「須和田遺跡」の石碑と案内板がある。後ろのフェンス内には弥生時代後期の復元住居が建てられていたが、不審火で焼失し、今はない。


写真3:県道1号線「国府台歩道橋」付近(奥が松戸市方面)。歩道橋の西側にも道路があるが、こちらのほうが古い道路で、元は「総寧寺」参道で、途中で「法皇塚古墳」の脇を通っていた。県道1号線は明治時代以降に刑務所の囚人の労働力によって切り開かれたものという。
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