海神念佛堂(かいじんねんぶつどう)。
場所:千葉県船橋市海神1-17-16。国道14号線から船橋市街地に向う旧道の三叉路(海神三叉路)から東に約200m。駐車場なし。
創建時期は不明。船橋市の海神地区は、「入日神社」(2012年12月15日記事)または「龍神社」(2012年12月22日記事)の項で書いたように、日本武尊が東征の際、下総国では当地に最初に上陸したという伝説があり、地名の由来にもなっているという。また、中世には「天沼千軒」という大集落があって、その氏神は「八幡神社」であり、別当寺として「天摩山 善光寺(あまのまさん ぜんこうじ)」という寺院があったという。その「善光寺」は現・海神小学校付近にあったとされるが、そこにはかつて古墳もあって(消滅)、石棺と馬の埴輪らしきものが出土したらしい。一説によれば、この「善光寺」は田原藤太こと藤原秀郷が平将門を討つために創建したものだが、その後の戦乱で焼失した。このとき、本尊の阿弥陀如来像は、現・松戸市小金の「東漸寺」に預けられたという。江戸時代、元禄年間には江戸・神田の高麗屋佐治右衛門がこの阿弥陀如来像を念仏堂に安置し、観音堂も寄進した。そして、芝「増上寺」の祐天上人の教化によって、浄土宗の寺院としての形を整えたとされる。藤原秀郷の創建というのは伝説だろう(平将門を裏切った桔梗の前という女性は秀郷の愛妾または娘とされ、将門の死後、各地を彷徨った後に海神念仏堂に滞在したが、目前の海に入水して果てたという伝承もある。)が、本尊の寄木造・定朝様の阿弥陀如来立像は平安時代後期~鎌倉時代初期のものという(昭和42年に船橋市指定文化財に指定)。
船橋市のHPから(指定文化財:木造阿弥陀如来立像)
写真1:「海神念佛堂」
写真2:同上、観音堂
写真3:観音堂の傍らにある「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれた道標。本来は行徳街道と成田街道(佐倉道)の分岐点にあったもので、元禄7年(1694年)に建てられた船橋市内最古の道標であるという。
場所:千葉県船橋市海神1-17-16。国道14号線から船橋市街地に向う旧道の三叉路(海神三叉路)から東に約200m。駐車場なし。
創建時期は不明。船橋市の海神地区は、「入日神社」(2012年12月15日記事)または「龍神社」(2012年12月22日記事)の項で書いたように、日本武尊が東征の際、下総国では当地に最初に上陸したという伝説があり、地名の由来にもなっているという。また、中世には「天沼千軒」という大集落があって、その氏神は「八幡神社」であり、別当寺として「天摩山 善光寺(あまのまさん ぜんこうじ)」という寺院があったという。その「善光寺」は現・海神小学校付近にあったとされるが、そこにはかつて古墳もあって(消滅)、石棺と馬の埴輪らしきものが出土したらしい。一説によれば、この「善光寺」は田原藤太こと藤原秀郷が平将門を討つために創建したものだが、その後の戦乱で焼失した。このとき、本尊の阿弥陀如来像は、現・松戸市小金の「東漸寺」に預けられたという。江戸時代、元禄年間には江戸・神田の高麗屋佐治右衛門がこの阿弥陀如来像を念仏堂に安置し、観音堂も寄進した。そして、芝「増上寺」の祐天上人の教化によって、浄土宗の寺院としての形を整えたとされる。藤原秀郷の創建というのは伝説だろう(平将門を裏切った桔梗の前という女性は秀郷の愛妾または娘とされ、将門の死後、各地を彷徨った後に海神念仏堂に滞在したが、目前の海に入水して果てたという伝承もある。)が、本尊の寄木造・定朝様の阿弥陀如来立像は平安時代後期~鎌倉時代初期のものという(昭和42年に船橋市指定文化財に指定)。
船橋市のHPから(指定文化財:木造阿弥陀如来立像)
写真1:「海神念佛堂」
写真2:同上、観音堂
写真3:観音堂の傍らにある「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれた道標。本来は行徳街道と成田街道(佐倉道)の分岐点にあったもので、元禄7年(1694年)に建てられた船橋市内最古の道標であるという。