神が宿るところ

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下総国の古代東海道(その7・河曲駅)

2013-11-23 23:07:06 | 古道
古代東海道の、下総国で最も南の駅家は「河曲(かわわ)」駅となる。実は、古代東海道には、伊勢国にも「河曲」駅があり、現・三重県鈴鹿市木田町付近と推定されている。伊勢国には河曲郡があり、郡名を取って名づけられたものと思われる。なお、推定地の近くには白鳳寺院の「南浦廃寺跡」、「伊勢国分寺跡」、河曲郡衙跡とみられる「狐塚遺跡」(いずれも鈴鹿市国分町)があり、最寄の駅はJR東海の関西本線「河曲」駅である(ただし、駅名は「かわの」と読む。)。
一方、下総国の「河曲」駅には、対応する郡名や遺称地はない。所在地については、かつては諸説あり、現在も発掘調査等による証憑はないが、千葉県千葉市の市街地中心部付近(千葉県庁を中心とする地域)と考えられるようになっている。古代東海道のルートは、幕張・検見川付近までは国道14号線に沿って進んできたものとみられるが、その先は北側にずれていたと思われるものの、直線的な道路痕跡もなく、よくわからない。にも関わらず、千葉市市街地中心部に推定されるのは、他の駅家との距離のほか、千葉市市街地を流れる都川が古代には大きく北に曲流していたとみられることによる。「河曲」駅の所在地をピンポイントで指し示すことは困難であるが、木下良氏(古代交通史研究会長)は、千葉県庁の東側にある現・「亥鼻公園」(住所:千葉市中央区亥鼻1-6-1)の台地上を「河曲」駅の所在地と推定している。ここは千葉氏宗家の本拠地であり、俗に「千葉城」と称することもあるようだが、歴史上では中世の城(館)であり、現在ある鉄筋コンクリート製の「亥鼻城」のような近世風の城ではない(誤解されるとして、歴史ファンからは不評を買っているらしい。)。「亥鼻公園」の北端の台地下には、千葉氏の祖・平良文の子忠頼が生まれた時に湧き出し、以来千葉氏の産湯の水として使われたと伝わる「お茶の水」の湧水跡がある。その名は、源頼朝が当地に来たとき、千葉常胤がこの水でお茶を立てて接待したという伝承によるが、もし、ずっと古くから湧き出していたとすれば、旅人のオアシスだったかもしれない。
ところで、千葉都市モノレール1号線「県庁前」駅の東側(千葉県議会棟の南側)にある羽衣公園内には「羽衣の松」がある。かつて、この辺りに蓮の花が多く咲く、美しい池があり、「池田の池」と呼ばれていた。夜になると、天女が舞い降りて蓮の花を眺めるといわれた。時の千葉介・平常将(1010年~1076年)は、天女の羽衣を隠して地上に留め、妻とした。この話に感激した天皇の仰せにより、千葉の蓮花に因んで「千葉」と名乗るようになったという(このため、千葉氏の系図では常将を初代当主とすることが多いとされる。)。「池田の池」というのはちょっと変な名前だが、かつてこの辺りが池田郷という里であったからで、菅原孝標女の「更級日記」では寛仁4年(1020年)旧暦9月15日に下総国の「いかた」という所に泊まった、と記している。この「いかた」というのが、池田郷のことだとされる。「野中に岡だちたる所に、ただ木ぞ三つたてる」とも描写しているが、この岡(丘)が現・「亥鼻公園」の丘かもしれない。


写真1:千葉県庁(住所:千葉市中央区市場町1-1)。すぐ横を都川が流れている。この水路は、ショートカットのための人工河川とみられている。川を隔てた北側の現・千葉地方裁判所がある辺りが「御殿跡」と呼ばれる場所で、千葉氏の館があった場所ともいう。


写真2:「羽衣の松」


写真3:「亥鼻城」(千葉市立郷土資料館)。写真左下に見えるのは千葉常胤の銅像。


写真4:「御茶の水」。既に湧水は涸れている。なお、徳川光圀(水戸黄門)が通ったときには「東照公御茶ノ水」と呼ばれていたという。
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