神が宿るところ

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護国山 柏山寺(出羽国分寺・その3)

2016-06-11 23:06:36 | 寺院
護国山 柏山寺(ごこくさん はくさんじ)。
場所:山形県山形市薬師町2-12-32。山形市役所の北東、約900m。「国分寺薬師堂」は山形県道19号線(山形山寺線)沿いの「薬師公園」(駐車場あり)北側に、「柏山寺」は「薬師公園」西側の道路の1本西の狭い道路の突き当たりにある(両者間は徒歩2~3分)。なお、「薬師堂」の東隣に「山形県護国神社」がある。
天台宗「護国山 柏山寺」の金堂を「国分寺薬師堂」(本尊:薬師如来)と称し、これを現存「出羽国分寺」とする。寺伝では、聖武天皇の詔(天平13年:741年)により行基が開山し、鎮守府将軍・大野東人が七堂伽藍を造営して、一萬畝歩(約100ha)を寺領として献じた。貞観年間(859~877年)、慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が当地を訪れて中興し、以来、天台宗となった、という。この寺伝からすると、当初から当地に「出羽国分寺」が建立されたようになっているが、一般に国分寺は国府の近くに建てられたので、それは考えられない、というのが通説。天平13年当時、既に「出羽国」は建国されていた(和銅5年:712年)が、「出羽国府」は当初の現・山形県庄内地方(具体的な場所は不明)から「秋田城(跡)」(現・秋田県秋田市、2015年8月1日及び同年8月8日記事)に移されていたとみられている(庄内地方から出ていないとする説もある。)。延暦23年(804年)に「秋田城」が停廃されると、「出羽国府」は「城輪柵(跡)」(現・山形県酒田市、2015年12月26日記事)に移り、近くに有る「堂の前遺跡」(2016年1月6日記事)が「出羽国分寺」跡と推定されている。したがって、当寺が「出羽国分寺」の後身とするなら、現・山形県酒田市から山形市に移ってきたことになる。伝承によれば、平安時代末期~鎌倉時代初期に「出羽国府」が山形市北部に移転したとされ、そこは「府中」と呼ばれていたという(「府中」は国衙の中世的な呼び名とされる。)。この伝承が正しければ、「出羽国分寺」も国府に従って移ってきたということだろう。一説によれば、最上家の祖、斯波兼頼が出羽国按察使将軍として山形に入り、延文5年(1360年)に金堂などを造営したという。その後、山形城主・最上義光が「出羽国分寺」の荒廃を歎き、天正2年(1574年)に寺領320石を寄進して堂宇を建築し、山形城の鬼門鎮護の霊場としたとされる。最上家改易の後は、徳川幕府の庇護を受け、「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の直末寺院となり、当地方の天台宗の触頭として末寺23ヵ寺を擁した。しかし、明治時代に入ると、神仏分離令によって存続困難となり、隣接していた天台宗「柏山寺」の管理下に入ったとされる(従って、「柏山寺」自体が「出羽国分寺」ではなく、その別当寺であるともいう。)。そして、薬師如来像を本尊とする金堂を「国分寺薬師堂」と称したが、明治44年の「山形市北部大火」により焼失してしまったため、同じく神仏分離令により廃寺となった真言宗の触頭「摩訶迦羅山(大黒山) 宝珠院 宝幢寺」(現・山形市東原町にある「もみじ公園」が同寺の跡地)の本堂を移築したのが、現在のものである。総欅(ケヤキ)造で、間口14間半(約26m)、奥行八間半(約15m)という堂々たる御堂で、明治16年に山形県会議事堂が完成するまで仮議事堂として使われたものという。


山形市観光連盟のHPから(薬師公園)


写真1:「国分寺薬師堂」正面入口


写真2:「聖武帝勅願所 國分寺薬師堂」の寺号標


写真3:薬師堂(金堂)


写真4:「護国山 柏山寺」
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