鹿島神宮(かしまじんぐう)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2306-1。JR鹿島線「鹿島神宮」駅の南東、約500m。駐車場有り。
社伝によれば、創建は神武天皇即位の年(紀元前660年?)という。天地開闢以前に高天原から天下った「香島の神」(建甕槌神または建御雷神)が霊剣「韴霊剣(フツノミタマノツルギ)」をもって神武天皇東征を助けたことから、その報恩のために祀ったのが始めとされる。なお、古くから鹿島灘で採れる砂鉄から剣が作られていたとされること(「常陸国風土記」)に関連があるかもしれない。「伊勢神宮」(単に「神宮」という。)、「香取神宮」(下総国一宮)とともに、平安時代~明治時代までは「神宮」と称されていた3社のうちの1社で、常陸国一宮。
タケミカヅチは、大国主命の子である建御名方神(タケミナカタ)に勝って葦原中国を平定した神で、その後も、古代東海道の終点(=陸奥の入口)である常陸国に鎮座して東北の荒ぶる神々と対峙することとなったのだろう。ただし、元々は鹿島の土着神で、一般に海上交通の神であったといわれるが、雷に関係があることから、あるいは農業の神だったのかもしれない。和銅6年(713年)の詔により編纂された「常陸国風土記」では「香島」と表記されており、(諸説あるが)「カシマ」というのは「船を繋ぐ杭を打つ島」という意味の「カシシマ」が訛ったものというのが有力説らしい。因みに、「肥前国杵島郡」(現・佐賀県)の「キシマ」という地名も同じ由来という。一説によれば、中臣氏(後の藤原氏)が常総地方の出身で、「香島の神」を信仰していたらしく、後に一族の氏神として「春日大社」(奈良市)に勧請した。このとき、御神体を神使である鹿に載せて運んだということから、「鹿島」という名を使うようになったともいう。これはコジツケぽいが、「続日本紀」養老7年(723年)の記事に「常陸国鹿島郡」と出てくるのが「鹿島」の初出だそうである。
さて、茨城県は地震が非常に多いところである。気象庁のデータによると、1986~1999年(14年間)の各都道府県庁所在地における有感地震の回数をみると、茨城県(水戸市)は915回に及び、全国第1位になっている。全国平均は182回であったというから、いかに多いかがわかる。昔は、地震は地中の大鯰が起こすものとされ、これを当神宮境内の要石が押さえているといわれている。当神宮の要石は社殿の東の森の中に祀られているが、地上に出ている部分はごくわずかで、上面が窪んでいる。実は巨岩で、地中深く続いているとされ、有名な水戸黄門こと徳川光圀公が、要石の根元を確かめようとして七日七晩にわたって石の周囲を掘ったが、掘りきれなかったという。
ところで、現在、当神宮の参道は西側にあるが、かつては北側から参るようになっていた。北側に御手洗池があり、現在も清水が湧いているが、参拝者は御手洗池で身を清めてからお参りしたのであるという。そうすると、御手洗池~奥宮(本来の神社の位置か?)~要石が直線的に並ぶことになる。要石が磐座であったかもしれないというのは、上面が窪んでいるという形状も、一つの証拠ではないかと思われる。磐座には盃状穴(カップホール)があることが多いからである。
鹿島神宮のHP
写真1:「鹿島神宮」の「一之鳥居」。当神宮の西、約2kmの「北浦」水上にある(鹿嶋市大船津)。かつては東西南北の4ヵ所にあったもののうち、西の鳥居に当たる。水底からの高さは18.5mあり、水上の鳥居としては安芸国一宮「厳島神社」(広島県)のものより高く、国内最大級という。
写真2:境内入口の大鳥居と社号標
写真3:楼門
写真4:社殿(拝殿)。北向きで、これは蝦夷の住む地域の方角を向いているのであるという。
写真5:社殿(本殿)。背後に御神木と「鏡石」という上面が平らで丸い石があるとのこと。「鏡石」は磐境(いわさか)だろうとされているものだが、拝殿の背後は立入禁止となっており、間近で見ることができないのが残念。
写真6:「奥宮」。祭神:武甕槌大神荒魂。
写真7:「要石」
写真8:「要石」のクロースアップ。地上に出ている部分はわずかで、上面には窪みがある。
写真9:大鯰を踏まえる建甕槌神のレリーフ
写真10:北側参道から入った所にある「御手洗池」。社殿がある台地から下がった谷の部分にあり、かつては船着き場があったらしい。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2306-1。JR鹿島線「鹿島神宮」駅の南東、約500m。駐車場有り。
社伝によれば、創建は神武天皇即位の年(紀元前660年?)という。天地開闢以前に高天原から天下った「香島の神」(建甕槌神または建御雷神)が霊剣「韴霊剣(フツノミタマノツルギ)」をもって神武天皇東征を助けたことから、その報恩のために祀ったのが始めとされる。なお、古くから鹿島灘で採れる砂鉄から剣が作られていたとされること(「常陸国風土記」)に関連があるかもしれない。「伊勢神宮」(単に「神宮」という。)、「香取神宮」(下総国一宮)とともに、平安時代~明治時代までは「神宮」と称されていた3社のうちの1社で、常陸国一宮。
タケミカヅチは、大国主命の子である建御名方神(タケミナカタ)に勝って葦原中国を平定した神で、その後も、古代東海道の終点(=陸奥の入口)である常陸国に鎮座して東北の荒ぶる神々と対峙することとなったのだろう。ただし、元々は鹿島の土着神で、一般に海上交通の神であったといわれるが、雷に関係があることから、あるいは農業の神だったのかもしれない。和銅6年(713年)の詔により編纂された「常陸国風土記」では「香島」と表記されており、(諸説あるが)「カシマ」というのは「船を繋ぐ杭を打つ島」という意味の「カシシマ」が訛ったものというのが有力説らしい。因みに、「肥前国杵島郡」(現・佐賀県)の「キシマ」という地名も同じ由来という。一説によれば、中臣氏(後の藤原氏)が常総地方の出身で、「香島の神」を信仰していたらしく、後に一族の氏神として「春日大社」(奈良市)に勧請した。このとき、御神体を神使である鹿に載せて運んだということから、「鹿島」という名を使うようになったともいう。これはコジツケぽいが、「続日本紀」養老7年(723年)の記事に「常陸国鹿島郡」と出てくるのが「鹿島」の初出だそうである。
さて、茨城県は地震が非常に多いところである。気象庁のデータによると、1986~1999年(14年間)の各都道府県庁所在地における有感地震の回数をみると、茨城県(水戸市)は915回に及び、全国第1位になっている。全国平均は182回であったというから、いかに多いかがわかる。昔は、地震は地中の大鯰が起こすものとされ、これを当神宮境内の要石が押さえているといわれている。当神宮の要石は社殿の東の森の中に祀られているが、地上に出ている部分はごくわずかで、上面が窪んでいる。実は巨岩で、地中深く続いているとされ、有名な水戸黄門こと徳川光圀公が、要石の根元を確かめようとして七日七晩にわたって石の周囲を掘ったが、掘りきれなかったという。
ところで、現在、当神宮の参道は西側にあるが、かつては北側から参るようになっていた。北側に御手洗池があり、現在も清水が湧いているが、参拝者は御手洗池で身を清めてからお参りしたのであるという。そうすると、御手洗池~奥宮(本来の神社の位置か?)~要石が直線的に並ぶことになる。要石が磐座であったかもしれないというのは、上面が窪んでいるという形状も、一つの証拠ではないかと思われる。磐座には盃状穴(カップホール)があることが多いからである。
鹿島神宮のHP
写真1:「鹿島神宮」の「一之鳥居」。当神宮の西、約2kmの「北浦」水上にある(鹿嶋市大船津)。かつては東西南北の4ヵ所にあったもののうち、西の鳥居に当たる。水底からの高さは18.5mあり、水上の鳥居としては安芸国一宮「厳島神社」(広島県)のものより高く、国内最大級という。
写真2:境内入口の大鳥居と社号標
写真3:楼門
写真4:社殿(拝殿)。北向きで、これは蝦夷の住む地域の方角を向いているのであるという。
写真5:社殿(本殿)。背後に御神木と「鏡石」という上面が平らで丸い石があるとのこと。「鏡石」は磐境(いわさか)だろうとされているものだが、拝殿の背後は立入禁止となっており、間近で見ることができないのが残念。
写真6:「奥宮」。祭神:武甕槌大神荒魂。
写真7:「要石」
写真8:「要石」のクロースアップ。地上に出ている部分はわずかで、上面には窪みがある。
写真9:大鯰を踏まえる建甕槌神のレリーフ
写真10:北側参道から入った所にある「御手洗池」。社殿がある台地から下がった谷の部分にあり、かつては船着き場があったらしい。