神が宿るところ

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中根長者の屋敷跡(茨城県かすみがうら市)

2020-07-11 23:18:46 | 史跡・文化財
中根長者の屋敷跡(なかねちょうじゃのやしきあと)。
場所:茨城県かすみがうら市下土田1413(「往西寺」の住所)。 国道6号線「下土田北」交差点から西に入ってすぐ(約25m)右折(北へ)、道なりに西へ約260mのところ(「往西寺 この先左折→」という案内看板がある。)で右折(北~北東へ)、約40mのところに石段の参道がある。自動車はそのまま進んで、案内看板のところを左折(西~南西へ)して約140m。駐車場有り。
「中根長者の屋敷跡」は、中根与衛門という豪族の屋敷跡という中世城館跡である。佐竹氏第19代当主・佐竹義宣は、天正18年(1590年)に水戸城(現・茨城県水戸市。城主・江戸氏)、府中城(現・茨城県石岡市。城主・大掾氏)を相次いで攻め落とし、次いで小川城(現・茨城県小美玉市。城主・小田氏方の薗田氏)を攻撃しようとした。その軍資金として、中根与衛門に対し、知人の野寺孫三郎(現・かすみがうら市下土田の西隣、同市西野寺に館があった。)を介して、金三千両を用立てするように命じた。元々、小田氏に恩顧のあった与衛門は、野寺が佐竹氏に滅ぼされた大掾氏の家臣だったこともあり、野寺の変節を詰り、軍資金の用立てを拒絶した。怒った佐竹氏が討手を差し向けたところ、与衛門の徳を慕った付近の農民らの助勢を断り、与衛門自身と小者数名で立ち向かい、討ち死にしたと伝えられている。その後に作られた与衛門の財産目録によれば、農具150人分、馬12頭、牛3頭、千石酒屋1軒、土蔵8棟、板鞍3棟、金蔵1棟のほか、刀30腰、槍20筋もあったという。「中根長者」の出自は明らかではないが、「〇〇長者」というと、ついつい古代官道の駅家の駅長出身者ではないかと思ってしまう。場所的に、「常磐自動車道」千代田石岡ICの直ぐ近くで、常陸国式内社「羽梨山神社」又は「夷針神社」の論社とされる「子安神社」(2018年12月29日記事)や「胎安神社」(2019年1月5日記事)にも近い。ただし、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)に近過ぎる(直線距離で約3.3km)のが難で、相当する駅家がない。とはいえ、「常陸国府」に付属して駅家の機能を有する官衙があった可能性があり(一部の学者は「国府」駅または「茨城」駅を想定している。)、その長の出身かもしれない。他の長者伝説に比べると、少し時代が下るのも気になるところだが、村上春樹著「平将門伝説ハンドブック」(2005年)によれば、「中根家(新治郡千代田町土田)」の項に、「この家の遠祖を中根与右衛門之丞平佐幹といい、平貞盛・藤原秀郷の連合軍に属して、猿島郡石井で平将門を討ち取った」(一部省略・改変)という伝承があると記載されている。これが佐竹氏に滅ぼされた中根長者の先祖とすると、中根長者の本姓が「平」(平氏の一族)であり、「丞(じょう)」というのが国司の三等官(通常は「掾(じょう)」)を示すものではないか、更に、武人として将門討伐軍にも加わった。つまり、単なる土豪や戦国時代に急成長した富農ではなく、元は貴族の末裔なのかも、とも想像される(個人的な妄想です。)。
なお、「中根長者の屋敷跡」には、現在、浄土真宗本願寺派「往西寺」があり、訪問時には南側の崖にしか目が行かなかったが、世の中には古城ファンというのが多いらしくて、そのブログもいくつもある。それらによれば、元は周りに土塁や堀を廻らせてあったようで、今もその痕跡が残っているらしい(小生には、その方面の興味があまりなかったので、写真を撮っていない。)。
因みに、「往西寺」については、江戸末期、当地を治めていた志筑藩(藩主・本堂氏)は小藩(江戸時代には旗本で、明治時代に入ってからのごく短期間、大名となった。)で、北越地方の農民に移住してもらい、新田開発を進めた。北越地方の人々には浄土真宗の信者が多く、同宗の寺院の建立を求める声が多かった。そこで、「西本願寺」から許可をもらい、古い仏堂を譲り受けて、摂津国(現・大阪府)から釋真誠という僧侶を招いて天保2年(1831年)に創建したとのこと。


写真1:台地上の「中根長者の屋敷跡」。南側から見る。


写真2:南側、「往西寺」参道石段と寺号標。


写真3:「往西寺」境内入口


写真4:同上、門を入ってすぐ、「町指定文化財 中根長者の屋敷跡」碑(当時、千代田町だった昭和48年に指定)


写真5:同上、本堂
コメント (2)
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