神が宿るところ

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師付の田井

2020-07-18 23:16:16 | 史跡・文化財
師付の田井(しづくのたい)。
場所:茨城県かすみがうら市中志筑3042-2。茨城県道64号線(土浦笠間線)と同138号線(石岡つくば線)の「中志筑」交差点から、138号線を北東~東へ約500m、押しボタン式信号のある交差点を左折(北へ)、約350mのところ(案内看板あり)で左折(北西へ)、約190m進んで突き当り(案内看板あり)を左折(西へ)、約220mで駐車場(県道から入った道路は狭いので通行注意)。駐車場から畦道を北に約120m。
「師付の田井」は、現在のかすみがうら市志筑地区の北側、恋瀬川(古代には信筑川)下流一帯の水田の中にある泉で、奈良時代の万葉歌人・高橋虫麻呂の歌にその名が出てくる。即ち、「草枕 旅の憂を 慰もる こともあらむと 筑波嶺に 登りてみれば 尾花散る 師付の田井に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 吉けくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂は息みぬ」(萬葉集 巻9 1757、読み下し文)。高橋虫麻呂は地方官人として常陸国に下り、常陸国の国司であった藤原宇合の下僚として「常陸国風土記」の編纂にも関わったという説がある。ということで、この歌は、都から遠い常陸国に派遣されてきたことでのストレスを筑波山に登れば晴れるかもしれないと思い、山上から見下ろしたところ、「師付の田井」や「新治の鳥羽の淡海」(いわゆる「騰波ノ江(とばのえ)」の湖)の秋の風景が眺められ、長年の憂いから解放された、というような内容となっている。
当地は、昭和48年以前には「鹿島やわら」と称され、湿原の中央に底知れずの深井戸があった。耕地整理によって景観が変わってしまったというが、記念の石碑も建てられ、元の深井戸のあった場所から水を引いて、今も泉になっている。この深井戸には、日本武尊が水飲みの器を落としたとか、鹿島の神(武甕槌神)が陣を張って炊事用に使ったとか、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の御手洗池と繋がっているとか、いろいろな伝説があったようだ。
因みに、県道から当地に向かって入ってきた道路の東側に「志筑城跡」があり、西側に曹洞宗「鳳林山 瑞雲院 長興寺」がある。「志筑城跡」は、中世~近世に出羽国山本郡(現・秋田県仙北郡)の小領主であった本堂氏が佐竹氏の転封と入れ替わりに当地を領し、その陣屋(当時は1万石に満たないため旗本だった。)があった場所であり、「長興寺」は本堂家歴代の菩提寺であったという(出羽国の「本堂城跡」については2015年12月5日記事参照)。


かすみがうら市のHPから(師付の田井)


写真1:田圃の中の「師付の田井」


写真2:同上、駐車場からの道。水田の先に恋瀬川が流れ、奥に見える丘が縄文時代中期~奈良時代の大集落跡「宮平遺跡」(現在は「常陸風土記の丘」公園になっている。)という位置関係。


写真3:同上、説明板


写真4:説明板に隠れるようにして「師付の田井」石碑


写真5:同上、石祠


写真6:同上、井戸
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