八幡塚古墳(はちまんづかこふん)。通称:沼田八幡塚古墳、筑波八幡塚古墳。
場所:茨城県つくば市沼田374ほか。茨城県道14号線(筑西つくば線)と同42号線(笠間つくば線)の交差点の南東、約140mのところ(農産物直売所の北端)から北東に向かう道路に入り、約150m進んで「従是筑波山道」という道標石があるところを右に(東へ)、約160mで「沼田保育所」などの看板のあるところを右折(南へ)、「沼田保育所」や「つくば市働く婦人の家」などの施設の裏側(北側)に回り込むと見えてくる。駐車場なし。
「(沼田)八幡塚古墳」は、筑波山南西麓、桜川左岸(東岸)にある前方後円墳で、桜川流域では最大クラス。前方部を南南東に向けているので、桜川から見れば、「筑波山」の手前に横たわるような形になっている。後円部墳頂に「八幡神社」(小祠であり、由緒不明)が祀られており、古墳名はこれに因む。前方部は遺存状態が悪かったため昭和53年度に推定復元されているが、これに先立って行われた発掘調査では、全長約90m、後円部径約58m、前方部長約32m、同先端幅約35mという大きさとなっている(つくば市教育委員会の現地説明板による。資料によって大きさに多少の違いがある。)。後円部は三段、前方部は二段以上の段丘構造で、裾部に葺石・埴輪の存在が認められた。周濠の存在は明確ではないが、東側にある「八幡池」は周濠の名残とみられており、人物埴輪の頭部が池の中から発見されたという。築造時期は、主体部の調査が行われていないため正確ではないが、出土埴輪や墳丘形状などから6世紀前半(古墳時代後期)頃と推定されている。筑波国造の領域では最大規模の古墳であり、初代筑波国造・阿閉色命(アヘシコ)の墳墓とする伝承がある。因みに、阿閉色命を初代国造とするのは 「先代旧事本紀 」の第10巻「国造本紀」筑波国造の条で、「志賀高穴穂朝(第13代・成務天皇)、阿閉色命を(筑波)国造に定め賜う」としている。なお、「常陸国風土記」では、元は「紀の国」といったが、第10代・崇神天皇代に物部氏の一族である筑箪命(ツクバ)が筑波国造に任ぜられ、その名を採って「筑波の国」というようになったとする説話を載せている。
茨城県のHPから(沼田八幡塚古墳)
茨城県教育員会のHPから(八幡塚)
写真1:「八幡塚古墳」(「八幡塚」の名で茨城県指定文化財に指定)。北東から見る。手前が後円部、後ろが前方部。
写真2:南西からみる。後円部。
写真3:南西から見る。前方部の角の部分。
写真4:南西から括れ部分、後円部を見る。右側(東側)に「八幡池」がある。
写真5:北東から見る。道路の突き当りが括れ部分。
写真6:前方部墳頂から後円部を見る。
写真7:後円部から前方部を見る。
写真8:「八幡神社」参道(後円部南東側)
写真9:後円部墳頂の「八幡神社」。覆い屋の下に小祠がある。
写真10:「八幡塚古墳」の西にある陪塚(「沼田幼稚園」の南)。約30mの円墳で、古墳上に小さな石祠があり、南側に横穴式石室が開口しているとされているが、訪問時には木が茂っていて確認できず。
場所:茨城県つくば市沼田374ほか。茨城県道14号線(筑西つくば線)と同42号線(笠間つくば線)の交差点の南東、約140mのところ(農産物直売所の北端)から北東に向かう道路に入り、約150m進んで「従是筑波山道」という道標石があるところを右に(東へ)、約160mで「沼田保育所」などの看板のあるところを右折(南へ)、「沼田保育所」や「つくば市働く婦人の家」などの施設の裏側(北側)に回り込むと見えてくる。駐車場なし。
「(沼田)八幡塚古墳」は、筑波山南西麓、桜川左岸(東岸)にある前方後円墳で、桜川流域では最大クラス。前方部を南南東に向けているので、桜川から見れば、「筑波山」の手前に横たわるような形になっている。後円部墳頂に「八幡神社」(小祠であり、由緒不明)が祀られており、古墳名はこれに因む。前方部は遺存状態が悪かったため昭和53年度に推定復元されているが、これに先立って行われた発掘調査では、全長約90m、後円部径約58m、前方部長約32m、同先端幅約35mという大きさとなっている(つくば市教育委員会の現地説明板による。資料によって大きさに多少の違いがある。)。後円部は三段、前方部は二段以上の段丘構造で、裾部に葺石・埴輪の存在が認められた。周濠の存在は明確ではないが、東側にある「八幡池」は周濠の名残とみられており、人物埴輪の頭部が池の中から発見されたという。築造時期は、主体部の調査が行われていないため正確ではないが、出土埴輪や墳丘形状などから6世紀前半(古墳時代後期)頃と推定されている。筑波国造の領域では最大規模の古墳であり、初代筑波国造・阿閉色命(アヘシコ)の墳墓とする伝承がある。因みに、阿閉色命を初代国造とするのは 「先代旧事本紀 」の第10巻「国造本紀」筑波国造の条で、「志賀高穴穂朝(第13代・成務天皇)、阿閉色命を(筑波)国造に定め賜う」としている。なお、「常陸国風土記」では、元は「紀の国」といったが、第10代・崇神天皇代に物部氏の一族である筑箪命(ツクバ)が筑波国造に任ぜられ、その名を採って「筑波の国」というようになったとする説話を載せている。
茨城県のHPから(沼田八幡塚古墳)
茨城県教育員会のHPから(八幡塚)
写真1:「八幡塚古墳」(「八幡塚」の名で茨城県指定文化財に指定)。北東から見る。手前が後円部、後ろが前方部。
写真2:南西からみる。後円部。
写真3:南西から見る。前方部の角の部分。
写真4:南西から括れ部分、後円部を見る。右側(東側)に「八幡池」がある。
写真5:北東から見る。道路の突き当りが括れ部分。
写真6:前方部墳頂から後円部を見る。
写真7:後円部から前方部を見る。
写真8:「八幡神社」参道(後円部南東側)
写真9:後円部墳頂の「八幡神社」。覆い屋の下に小祠がある。
写真10:「八幡塚古墳」の西にある陪塚(「沼田幼稚園」の南)。約30mの円墳で、古墳上に小さな石祠があり、南側に横穴式石室が開口しているとされているが、訪問時には木が茂っていて確認できず。