金田官衙遺跡(こんだかんがいせき)。
場所:茨城県つくば市金田1473-1ほか。「つくば市立桜中学校」敷地が「金田西坪B遺跡」、その北西側に「金田西遺跡」、更にその西側に「九重東岡廃寺跡」がある。駐車場なし。
「金田官衙遺跡」は、筑波山の南方約15kmの位置にある奈良・平安時代(8世紀前葉~9世紀中葉)に営まれた古代官衙遺跡で、常陸国河内郡の郡家(郡衙)関連遺跡と見られている。「常陸国風土記」には河内郡の条が欠落しているが、他郡の記述から存在が確認されていた。かつて「河内郡家」は現・茨城県牛久市付近が有力とされていたが、昭和34年の「桜中学校」の校庭拡張工事中に総柱の掘立柱建物跡、大量の炭化米が発見されたことから、当地に古代官衙遺跡が存在することが認められた。昭和59年には、その北西に「九重東岡廃寺跡」と称される仏教遺跡が筑波大学によって発掘調査され、建物基壇、瓦溜まり、井戸等が検出された。平成11年度以降、都市整備公団による土地区画事業に先行する確認調査が行われ、大規模な古代官衙遺跡が存在することを確認したことから、茨城県及びつくば市は遺跡を現状保存することとし、平成14年度につくば市教育委員会の調査で遺跡の範囲をほぼ確定した、とされる。なお、つくば市には、当遺跡の北、約9kmのところに「平沢官衙遺跡」(2020年12月12日記事)があり、これが常陸国筑波郡の郡家(郡衙)跡とされているので、同市内に2つの郡家跡があることになる。
当遺跡は、筑波山麓付近から霞ヶ浦に向けて広がる桜川流域の沖積低地を東側に望む標高25~27mの台地上に位置し、次の3つの遺跡に細分されている。
①「金田西坪B遺跡」:幅約3m、深さ約1.3mの溝で区画された東西約110m、南北約310mの範囲に、礎石建物跡や総柱の掘立柱建物跡が確認された。炭化米が出土したという記録があり、郡家付属の「正倉院」(税として納められた米穀や調布等を収納する倉庫群)跡とみなされている。
②「金田西遺跡」:4群に分かれて品字状やL字状に配置された約100棟の掘立柱建物跡や礎石建物跡、井戸跡、柵列等が確認されており、郡家の郡庁(郡司の政務を行う施設群)遺跡跡とされている。
③「九重東岡廃寺跡」:基壇建物跡や四面庇の特殊な建物跡が確認され、多数の瓦が出土されたことから、いわゆる郡家付属寺院跡とみられている。
以上のように、正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡が一括して把握できるという点で貴重な遺跡とされ、平成16年に国指定史跡に指定された。
ということなのだが、整備が始まったばかりで、今は何もなく、映えないこと夥しい。ただし、ここにも「長者伝説」があると知って、採り上げてみた。当地の「長者伝説」は凡そ、次のような話である。「桜中学校」敷地は「長者屋敷」と呼ばれていたところで、グラウンドの南端に「長者塚」という地名(字名)があった。ここからは大量の焼け米(炭化米)が出土した。ここに住んでいた金田の長者は、平将門が常陸国に進攻してきた際、将門軍が雷雨に遭って難儀しているのをみて、何万人もの軍勢全てに蓑笠を提供した。将門は感謝したが、長者の富と力に脅威を感じ、長者を焼き討ちして滅ぼしてしまった、という。同様な伝説は茨城県各地にある(例えば、現・水戸市の「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照。)が、他では源義家に滅ぼされたことになっていて、ここでは将門の話になっているところが面白い。
文化遺跡オンラインのHPから(金田官衙遺跡)
写真1:「桜中学校」。その敷地が「正倉院跡」とみられている。本来はグラウンドを撮りたかったが、道路沿いに校舎が建っていて、中に入ると不審者と思われそうなので、写真はこれだけ。炭化米等が出土したのは、グラウンドの南側になる。
写真2:「桜中学校」北西端の向かい側の道路の先が大型建物群の跡で、特にその西側が「河内郡衙(郡庁)」の跡と考えられている。因みに、写真奥の大きな建物はZOZOの物流倉庫。
写真3:「河内郡衙(郡庁)」跡と思われる場所。上記道路から西側を見る。実は、当地には数回来ているのだが、以前にはこの辺りに住宅が何軒かあったはずで、今後の整備のために買収したのだろう。こちらも「平沢官衙遺跡」のようになるのだろうか。
写真4:茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の新道側から東を見る(写真3の反対側)。
写真5:「九重東岡廃寺跡」と思われる場所。茨城県道201号線の旧道側から北東を見る。
画像:遺跡図面。写真では、あまりにも何が何だか分からないので、図面を掲載。
場所:茨城県つくば市金田1473-1ほか。「つくば市立桜中学校」敷地が「金田西坪B遺跡」、その北西側に「金田西遺跡」、更にその西側に「九重東岡廃寺跡」がある。駐車場なし。
「金田官衙遺跡」は、筑波山の南方約15kmの位置にある奈良・平安時代(8世紀前葉~9世紀中葉)に営まれた古代官衙遺跡で、常陸国河内郡の郡家(郡衙)関連遺跡と見られている。「常陸国風土記」には河内郡の条が欠落しているが、他郡の記述から存在が確認されていた。かつて「河内郡家」は現・茨城県牛久市付近が有力とされていたが、昭和34年の「桜中学校」の校庭拡張工事中に総柱の掘立柱建物跡、大量の炭化米が発見されたことから、当地に古代官衙遺跡が存在することが認められた。昭和59年には、その北西に「九重東岡廃寺跡」と称される仏教遺跡が筑波大学によって発掘調査され、建物基壇、瓦溜まり、井戸等が検出された。平成11年度以降、都市整備公団による土地区画事業に先行する確認調査が行われ、大規模な古代官衙遺跡が存在することを確認したことから、茨城県及びつくば市は遺跡を現状保存することとし、平成14年度につくば市教育委員会の調査で遺跡の範囲をほぼ確定した、とされる。なお、つくば市には、当遺跡の北、約9kmのところに「平沢官衙遺跡」(2020年12月12日記事)があり、これが常陸国筑波郡の郡家(郡衙)跡とされているので、同市内に2つの郡家跡があることになる。
当遺跡は、筑波山麓付近から霞ヶ浦に向けて広がる桜川流域の沖積低地を東側に望む標高25~27mの台地上に位置し、次の3つの遺跡に細分されている。
①「金田西坪B遺跡」:幅約3m、深さ約1.3mの溝で区画された東西約110m、南北約310mの範囲に、礎石建物跡や総柱の掘立柱建物跡が確認された。炭化米が出土したという記録があり、郡家付属の「正倉院」(税として納められた米穀や調布等を収納する倉庫群)跡とみなされている。
②「金田西遺跡」:4群に分かれて品字状やL字状に配置された約100棟の掘立柱建物跡や礎石建物跡、井戸跡、柵列等が確認されており、郡家の郡庁(郡司の政務を行う施設群)遺跡跡とされている。
③「九重東岡廃寺跡」:基壇建物跡や四面庇の特殊な建物跡が確認され、多数の瓦が出土されたことから、いわゆる郡家付属寺院跡とみられている。
以上のように、正倉院、官衙地区、仏教関係遺跡が一括して把握できるという点で貴重な遺跡とされ、平成16年に国指定史跡に指定された。
ということなのだが、整備が始まったばかりで、今は何もなく、映えないこと夥しい。ただし、ここにも「長者伝説」があると知って、採り上げてみた。当地の「長者伝説」は凡そ、次のような話である。「桜中学校」敷地は「長者屋敷」と呼ばれていたところで、グラウンドの南端に「長者塚」という地名(字名)があった。ここからは大量の焼け米(炭化米)が出土した。ここに住んでいた金田の長者は、平将門が常陸国に進攻してきた際、将門軍が雷雨に遭って難儀しているのをみて、何万人もの軍勢全てに蓑笠を提供した。将門は感謝したが、長者の富と力に脅威を感じ、長者を焼き討ちして滅ぼしてしまった、という。同様な伝説は茨城県各地にある(例えば、現・水戸市の「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照。)が、他では源義家に滅ぼされたことになっていて、ここでは将門の話になっているところが面白い。
文化遺跡オンラインのHPから(金田官衙遺跡)
写真1:「桜中学校」。その敷地が「正倉院跡」とみられている。本来はグラウンドを撮りたかったが、道路沿いに校舎が建っていて、中に入ると不審者と思われそうなので、写真はこれだけ。炭化米等が出土したのは、グラウンドの南側になる。
写真2:「桜中学校」北西端の向かい側の道路の先が大型建物群の跡で、特にその西側が「河内郡衙(郡庁)」の跡と考えられている。因みに、写真奥の大きな建物はZOZOの物流倉庫。
写真3:「河内郡衙(郡庁)」跡と思われる場所。上記道路から西側を見る。実は、当地には数回来ているのだが、以前にはこの辺りに住宅が何軒かあったはずで、今後の整備のために買収したのだろう。こちらも「平沢官衙遺跡」のようになるのだろうか。
写真4:茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の新道側から東を見る(写真3の反対側)。
写真5:「九重東岡廃寺跡」と思われる場所。茨城県道201号線の旧道側から北東を見る。
画像:遺跡図面。写真では、あまりにも何が何だか分からないので、図面を掲載。