神が宿るところ

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金村別雷神社

2021-04-03 23:48:26 | 神社
金村別雷神社(かなむらべつらいじんじゃ)。通称:金村別雷神社(かなむらわけいかづちじんじゃ)、金村様、雷神様など。茨城県神社庁のHPでは、単に「別雷神社」となっている。
場所:茨城県つくば市上郷8319-1。茨城県道123号線(土浦坂東線)と同129号線(下妻常総線)の交差点から、129号線を北へ約1kmのところ(案内看板が出ている。)で右折(北東へ)、直ぐに小貝川の堤防に突き当たり、右折(南東へ)、堤防上に上がったら川の方へ下りて、道なりにターンして川の上流に橋(「福雷橋」)が見えるので、その橋を渡ったら直ぐ左折(北へ)、社殿前までは約200m。なお、堤防上の道路に最大重量2.0t、最大幅2.0mの規制標識があるので注意。駐車場有り。
社伝によれば、当地の領主であった豊田氏が霊夢に感じて、承平元年(931年)に山城国一宮「賀茂別雷神社」(通称「上賀茂神社」。現・京都市北区)の分霊を勧請して創建したという。ただし、豊田氏の祖である平政幹(平貞盛の曾孫である多気重幹の三子)が豊田将基と名乗るのは「前九年の役」(1051~1062年) の戦功で豊田郡を賜ってからであり、承平元年頃に豊田郡を支配していたのは平将門と思われる。豊田将基は「石毛荒四郎」とも称したらしく、現・茨城県常総市辺りの開発領主であったと考えられており、当神社の神宝として豊田将基の「つむぎ龍紋」の旗が残されているとのことで、創建時期はともかく、豊田氏との結び付きが強かったとみられる。豊田氏は天正3年(1575年)頃に下妻城主・多賀谷氏によって滅亡させられるが、その後も当神社は農業守護の神として信仰を集めたようである。なお、当神社は、現・茨城県水戸市の「別雷皇太神」と現・群馬県邑楽郡板倉町の「雷電神社」とともに「関東三雷神」とされる。現在の祭神は別雷大神で、御利益は家内安全、商売繁盛、交通安全、雷除け、厄除けなど。最近では、雷が「落ちない」ということで、合格祈願も多いとのこと。
因みに、次のような昔話がある。明治の初め頃、旧・千代川村(現・茨城県下妻市)の字「茂鹿」というところに飯岡家という農家があり、その主人は冗談好きな人物だった。茂鹿では毎年のように洪水の被害があるため、「金村別雷神社」にお参りして水難除けの祈願をした。そのとき、ついつい冗談で「雷神様、たまにはうちの方にも遊びに来てください。熱いお茶の一杯でも差し上げますよ。」と願った。主人はすっかり忘れていたが、ある暑い夏の日、昼頃から急に空模様が怪しくなり、飯岡家の周りが黒雲に囲まれ、大音響とともに幾条もの稲妻が落ちた。主人は土間で頭を抱えてしゃがみ込んでいたが、我に返ると、茶釜の蓋が無い。これは、雷神様が冗談を信じて、熱いお茶を飲みに来たと思い、自らの軽はずみを悔いた。後日、無くなった茶釜の蓋が旧・大穂町(現・つくば市)の麦畑で見つかり、その場所に祠を建てて、「茶釜雷神」として祀るようになった。また、当地では、雷が鳴ると、茶釜で茶を沸かして雷神様に供えるようになった、という(佐藤俊介著「大穂町の昔ばなし」ほかによる。)。なお、この「茶釜雷神」社は、現・下妻市大園木の「愛宕神社」横にある「水神宮」であろうとのこと。


写真1:「金村別雷神社」一の鳥居と社号標


写真2:二の鳥居(扁額「別雷神社」)と社号標(「茨城県指定文化財 茨城百景 金村別雷神社」)


写真3:境内の「金村別雷神社御榊山」


写真4:拝殿


写真5:本殿(覆屋)


写真6:本殿


写真7:本殿背後の末社(合祀殿)
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