手子后神社(てごさきじんじゃ)。通称:波崎明神。
場所:茨城県神栖市波崎8819。千葉県銚子市方面から利根川に架かる「銚子大橋」を渡り、国道124号線「銚子大橋入口」交差点(五差路)の歩道橋の直ぐ右側(東側)の道路に入る(鳥居が見える)。そのまま約170m進むと、駐車場がある。
社伝によれば、創建は神護景雲年間(767~770年)。古来、「息栖神社」(2017年12年2日記事)及び「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)とともに、常陸国一宮「鹿島神宮」の三摂社とされてきたという。現在の祭神は手子比売命(テゴヒメ)で、鹿島神(武甕槌命)の娘神とされる。近世には、「神遊社」、「天宮社」、「手子崎神社」等とも称されていた。明治6年、村社に列格。常陸国の南東端、現・利根川の河口近くに位置し、今も漁業関係者の崇敬が篤い。
さて、祭神の手子比売命であるが、中臣氏(藤原氏)の祖神・天児屋根命(アメノコヤネ)の別名という天足別命(アメノタルワケ)が鹿島神の子神ともされるが、娘神は一般には知られていない。古代、「萬葉集」などで「手児(てこ)」というのは「可愛い女の子」の意味があり、このブログ記事でも「手児の呼坂」(2011年5月10日記事)、「手児奈霊神堂」(2013年3月16日記事)などの例がある。そこで、「常陸国風土記」香島郡条に記述のある、所謂「童子女の松原」伝説の「海上の安是之嬢子(うなかみのあぜのいらつめ)」を祀ったものではないかとの説がある。「常陸国風土記」香島郡条では、例によって、まず建郡の事情が語られる。即ち、大化5年(649年)、香島郡は下総国海上国造の領内から「軽野」(現・神栖市知手付近。同町内に「軽野小学校」がある。)から南の1里と、常陸国那賀国造の領内から「寒田」(現・神栖市奥野谷付近)から北5里を合わせ、「鹿島神宮」のための神領として新設されたという。このことは、前提として重要な意味を持つと思われる。そして、「童子女の松原」伝説については、次のようになっている。昔、「那賀の寒田之郎子(なかのさむたのいらつこ)」という男と、「海上の安是之嬢子」(「安是」は、常陸国と下総国の国境付近)という女があって、いずれも容姿端麗で有名だった。その噂を聞いて、互いに慕う気持ちを持っていたところ、嬥歌(かがい。歌垣ともいう。)のときに偶々出会い、皆から離れ、松の木の下で語らいあった。時を忘れ、気が付くと夜が明けていた。人に見られることを恥じて、2人とも松の樹になってしまった。男の方を「奈美松」、女の方を「古津松」という...。と、このような話で、原文では四六駢儷体風の美文調で語られるのだが、なぜ、2人が恥じて松の樹になってしまったのか、現代人にはわかりにくいところがある。風土記の注に、この2人を「俗に、加味乃乎止古・加味乃乎止売(かみのおとこ・かみのおとめ)という。」とあって、「童子女」というのは、神に仕える男女だったということを意味しているらしい。そして、男は元・那賀国造領内、女は元・海上国造領内に分かれていて、仕える神や所属するコミュニティが異なっていたことから、自由な恋愛は許されず、タブーに触れて、死に追いやられたのだろうと解釈されているようである。
因みに、当神社の北東、約600m(直線距離)のところに「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」がある。当神社は、現在では南東に伸びた砂洲の先端に位置するが、古代には現・神栖市南部(旧・波崎町)の殆どは海だった可能性があると思われる。そして、①古墳や古代の集落跡は現・神栖市日川付近が南限であること、②「常陸国風土記」によれば、「童子女の松原」は「軽野」の南にあると解されること、③同じく、「童子女の松原」は、近くに山や岩清水があり、遠くに海があるという記述になっていること、④当神社が「鹿島神宮」の摂社だとすると、(古代から存在したとしても)元はもっと「鹿島神宮」に近い場所にあったのではないかとみられることなどから、「童子女の松原」が現在の「常陸国風土記 童子女の松原公園」の近くにあったとは考えにくいようである。
写真1:「手子后神社」一の鳥居。「銚子大橋」北詰、利根川左岸(北岸)畔にある。
写真2:同上、二の鳥居
写真3:同上、三の鳥居。潜った左手に駐車場、社務所がある。
写真4:同上、拝殿
写真5:同上、本殿
写真6:同上、境内社「厳島神社」(祭神:市杵島姫命)
写真7:「常陸国風土記 童子女の松原公園」入口(場所:茨城県神栖市波崎9591。「手子后神社」境内入口前から東に約200mで左折して、茨城県道117号線(深芝を北へ約200m、五差路の交差点を正面右側の道路に入り、約350m。「神栖市はさき生涯学習センター」の裏手にある。同センター駐車場を利用。)
写真8:同上、「童子女の松原」石碑、銅像
写真9:同上、若い男女の銅像
場所:茨城県神栖市波崎8819。千葉県銚子市方面から利根川に架かる「銚子大橋」を渡り、国道124号線「銚子大橋入口」交差点(五差路)の歩道橋の直ぐ右側(東側)の道路に入る(鳥居が見える)。そのまま約170m進むと、駐車場がある。
社伝によれば、創建は神護景雲年間(767~770年)。古来、「息栖神社」(2017年12年2日記事)及び「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)とともに、常陸国一宮「鹿島神宮」の三摂社とされてきたという。現在の祭神は手子比売命(テゴヒメ)で、鹿島神(武甕槌命)の娘神とされる。近世には、「神遊社」、「天宮社」、「手子崎神社」等とも称されていた。明治6年、村社に列格。常陸国の南東端、現・利根川の河口近くに位置し、今も漁業関係者の崇敬が篤い。
さて、祭神の手子比売命であるが、中臣氏(藤原氏)の祖神・天児屋根命(アメノコヤネ)の別名という天足別命(アメノタルワケ)が鹿島神の子神ともされるが、娘神は一般には知られていない。古代、「萬葉集」などで「手児(てこ)」というのは「可愛い女の子」の意味があり、このブログ記事でも「手児の呼坂」(2011年5月10日記事)、「手児奈霊神堂」(2013年3月16日記事)などの例がある。そこで、「常陸国風土記」香島郡条に記述のある、所謂「童子女の松原」伝説の「海上の安是之嬢子(うなかみのあぜのいらつめ)」を祀ったものではないかとの説がある。「常陸国風土記」香島郡条では、例によって、まず建郡の事情が語られる。即ち、大化5年(649年)、香島郡は下総国海上国造の領内から「軽野」(現・神栖市知手付近。同町内に「軽野小学校」がある。)から南の1里と、常陸国那賀国造の領内から「寒田」(現・神栖市奥野谷付近)から北5里を合わせ、「鹿島神宮」のための神領として新設されたという。このことは、前提として重要な意味を持つと思われる。そして、「童子女の松原」伝説については、次のようになっている。昔、「那賀の寒田之郎子(なかのさむたのいらつこ)」という男と、「海上の安是之嬢子」(「安是」は、常陸国と下総国の国境付近)という女があって、いずれも容姿端麗で有名だった。その噂を聞いて、互いに慕う気持ちを持っていたところ、嬥歌(かがい。歌垣ともいう。)のときに偶々出会い、皆から離れ、松の木の下で語らいあった。時を忘れ、気が付くと夜が明けていた。人に見られることを恥じて、2人とも松の樹になってしまった。男の方を「奈美松」、女の方を「古津松」という...。と、このような話で、原文では四六駢儷体風の美文調で語られるのだが、なぜ、2人が恥じて松の樹になってしまったのか、現代人にはわかりにくいところがある。風土記の注に、この2人を「俗に、加味乃乎止古・加味乃乎止売(かみのおとこ・かみのおとめ)という。」とあって、「童子女」というのは、神に仕える男女だったということを意味しているらしい。そして、男は元・那賀国造領内、女は元・海上国造領内に分かれていて、仕える神や所属するコミュニティが異なっていたことから、自由な恋愛は許されず、タブーに触れて、死に追いやられたのだろうと解釈されているようである。
因みに、当神社の北東、約600m(直線距離)のところに「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」がある。当神社は、現在では南東に伸びた砂洲の先端に位置するが、古代には現・神栖市南部(旧・波崎町)の殆どは海だった可能性があると思われる。そして、①古墳や古代の集落跡は現・神栖市日川付近が南限であること、②「常陸国風土記」によれば、「童子女の松原」は「軽野」の南にあると解されること、③同じく、「童子女の松原」は、近くに山や岩清水があり、遠くに海があるという記述になっていること、④当神社が「鹿島神宮」の摂社だとすると、(古代から存在したとしても)元はもっと「鹿島神宮」に近い場所にあったのではないかとみられることなどから、「童子女の松原」が現在の「常陸国風土記 童子女の松原公園」の近くにあったとは考えにくいようである。
写真1:「手子后神社」一の鳥居。「銚子大橋」北詰、利根川左岸(北岸)畔にある。
写真2:同上、二の鳥居
写真3:同上、三の鳥居。潜った左手に駐車場、社務所がある。
写真4:同上、拝殿
写真5:同上、本殿
写真6:同上、境内社「厳島神社」(祭神:市杵島姫命)
写真7:「常陸国風土記 童子女の松原公園」入口(場所:茨城県神栖市波崎9591。「手子后神社」境内入口前から東に約200mで左折して、茨城県道117号線(深芝を北へ約200m、五差路の交差点を正面右側の道路に入り、約350m。「神栖市はさき生涯学習センター」の裏手にある。同センター駐車場を利用。)
写真8:同上、「童子女の松原」石碑、銅像
写真9:同上、若い男女の銅像