外城遺跡(とじょういせき)。茨城郡衙推定地。
場所:茨城県石岡市貝地1-11外。国道6号線(千代田石岡バイパス)と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から国道を南西に約60mで左折(南東へ)、道なりに約550m(途中、約200mのところの分岐は右、その先、約40mの分岐は左へ進む。)。「札掛稲荷神社」の鎮座地が「外城遺蹟」の北東端に当たる。駐車場なし。
石岡市には中世城館跡として「府中城跡」と「石岡城跡」の2つがあるが、「府中」というのはかつて国府があった場所を指すので、「府中城」は全国各地にある。そこで、石岡市の「府中城」を「常陸府中城」とか「石岡府中城」とか称するが、中には「石岡城」としている資料もあって紛らわしい。一般には、「府中城跡」は古代常陸国の国庁(国衙)があった場所に、「石岡城跡」は同じく常陸国茨城郡の郡家(郡衙)のあった場所に、中世、(常陸)大掾氏が城館を築いた遺跡と考えられている(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照。なお、「府中城」の方は江戸時代、常陸府中藩の陣屋となった。)。大掾氏は常陸平氏の嫡流であり、平国香(平将門の叔父)を祖とするが、本来の惣領家であった多気氏は建久4年(1193年)に多気義幹が八田知家の中傷によって失脚し、同族の馬場資幹が惣領家を継いで大掾氏を名乗った。更に、源頼朝(鎌倉幕府)から建保2年(1214年)に常陸国府・常陸府中の地頭に任ぜられ、常陸国衙機構を掌握した。最初、資幹が建保2年に「石岡城」を築いて居館としたが、貞和2年・正平元年(1346年)、「石岡城」第8代城主・大掾詮国によって「府中城」が築かれて、そちらが大掾氏の居館となったが、「石岡城」も出城(外城)として存続した(このため、当地の地名(字名)を「外城」という。)。天正18年(1590年)、「府中城」が佐竹義宣によって攻略され、城主・大掾清幹は自刃し、「石岡城」も廃城となったとされる。
さて、「外城遺跡」は中世城館「石岡城跡」というのは確定しているが、伝承では、元は古代の茨城郡家(郡衙)と最初の常陸国庁(国衙)が置かれた場所といわれている。「茨城廃寺跡」(2018年2月3日記事)は茨城郡家付属の古代寺院跡とされ、「外城遺跡」はその南西約300mのところにあること、奈良・平安時代の土器や瓦片が採取されることから、茨城郡家(郡衙)跡であることはほぼ間違いないとみられているが、本格的な発掘調査等はなされていないため、まだ確定できてはいないようである。因みに、「常陸国風土記」茨城郡の条の、郡家の南西に信筑川(現・恋瀬川)が流れており、東10里(=約5.3km)のところに桑原の丘(現・茨城県小美玉市上玉里、「大宮神社」付近。「玉井」(2019年2月2日記事)参照)がある、という内容の記述に概ね合致している。
札掛稲荷神社(ふだかけいなりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市貝地1-2-64(行き方は上記の通り)。
現在は1つの神社として登録されているが、本来は「札掛神社」と「岡田稲荷神社」である。社伝によれば、「札掛神社」は、常陸大掾・平詮幹(詮国)が「外城」に守護神として鹿島大神の分霊を祀り、家臣の札掛民部介氏俊に命じて奉務させたという。現在の祭神は武甕槌命と札掛民部介氏俊。また、「岡田稲荷神社」は、当地はかつて常陸大掾・平国香の居館跡だったが、近世には寂れて、昼夜、不思議なことが起きて村人に恐れられていた。天保6年(1835年)、岡田彦兵衛の霊夢に「汝の祖先に祀られた館宮稲荷大明神である。天正の変で大掾氏が滅び、汝の祖先も討死にした。再興する者もなく、太平の世を待っていたが、今その時となった。汝の居宅の子(ね。北)の方向に五丈八尺余(=約18m)の大木があり、それが神木で、そこが社地である。速やかに祀れば、汝の家を守り、諸人をも救う。」とのお告げがあった。他にも同様の夢を見た者が多く、早速社殿を建立したところ、噂を聞いた人々の参拝が増え、社頭が賑わったという。現在の祭神は宇賀御魂命。なお、天明4年(1784年)には札掛明神に廻り(幹回り?)3丈(=約9m)という大椎(シイ)があったが、明治4年の「石岡誌」によれば、弘化年中(1844~1848年)に枯死し、文久年中(1861~1864年)に腐朽してしまったという。また、茄子(ナス)を献じて祈願すると成就するといわれるが、これは、大掾浄幹(清幹)の奥方・茄子依御前が深く当神社を崇敬したことによるという。
写真1:「札掛稲荷神社」境内入口の鳥居。説明板は「石岡城(外城)跡」についてのもの。
写真2:同上、鳥居の右側に土塁と堀が残っている。
写真3:同上、土塁上にある「札掛神社岡田稲荷神社」石碑
写真4:同上、境内
写真5:「岡田稲荷神社」社殿
写真6:奥に「札掛神社」社殿。この背後がさらに一段高くなっている。元は城館の櫓台だったともいわれているが、北東端なので鬼門除けに当初から守護神として神社が祀られた可能性も高い。なお、敵方の佐竹氏は常陸国久慈郡佐竹郷(現・常陸太田市)が本拠地だったから、北東側を防御する実際的な意味もあったかもしれない。
写真7:「札掛神社」社殿前から南西を見る。「外城遺跡」は南西側が主要部である(「古館(ふんだて)」などの地名がある。)とされるが、今は畑などがあるだけ。
場所:茨城県石岡市貝地1-11外。国道6号線(千代田石岡バイパス)と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から国道を南西に約60mで左折(南東へ)、道なりに約550m(途中、約200mのところの分岐は右、その先、約40mの分岐は左へ進む。)。「札掛稲荷神社」の鎮座地が「外城遺蹟」の北東端に当たる。駐車場なし。
石岡市には中世城館跡として「府中城跡」と「石岡城跡」の2つがあるが、「府中」というのはかつて国府があった場所を指すので、「府中城」は全国各地にある。そこで、石岡市の「府中城」を「常陸府中城」とか「石岡府中城」とか称するが、中には「石岡城」としている資料もあって紛らわしい。一般には、「府中城跡」は古代常陸国の国庁(国衙)があった場所に、「石岡城跡」は同じく常陸国茨城郡の郡家(郡衙)のあった場所に、中世、(常陸)大掾氏が城館を築いた遺跡と考えられている(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照。なお、「府中城」の方は江戸時代、常陸府中藩の陣屋となった。)。大掾氏は常陸平氏の嫡流であり、平国香(平将門の叔父)を祖とするが、本来の惣領家であった多気氏は建久4年(1193年)に多気義幹が八田知家の中傷によって失脚し、同族の馬場資幹が惣領家を継いで大掾氏を名乗った。更に、源頼朝(鎌倉幕府)から建保2年(1214年)に常陸国府・常陸府中の地頭に任ぜられ、常陸国衙機構を掌握した。最初、資幹が建保2年に「石岡城」を築いて居館としたが、貞和2年・正平元年(1346年)、「石岡城」第8代城主・大掾詮国によって「府中城」が築かれて、そちらが大掾氏の居館となったが、「石岡城」も出城(外城)として存続した(このため、当地の地名(字名)を「外城」という。)。天正18年(1590年)、「府中城」が佐竹義宣によって攻略され、城主・大掾清幹は自刃し、「石岡城」も廃城となったとされる。
さて、「外城遺跡」は中世城館「石岡城跡」というのは確定しているが、伝承では、元は古代の茨城郡家(郡衙)と最初の常陸国庁(国衙)が置かれた場所といわれている。「茨城廃寺跡」(2018年2月3日記事)は茨城郡家付属の古代寺院跡とされ、「外城遺跡」はその南西約300mのところにあること、奈良・平安時代の土器や瓦片が採取されることから、茨城郡家(郡衙)跡であることはほぼ間違いないとみられているが、本格的な発掘調査等はなされていないため、まだ確定できてはいないようである。因みに、「常陸国風土記」茨城郡の条の、郡家の南西に信筑川(現・恋瀬川)が流れており、東10里(=約5.3km)のところに桑原の丘(現・茨城県小美玉市上玉里、「大宮神社」付近。「玉井」(2019年2月2日記事)参照)がある、という内容の記述に概ね合致している。
札掛稲荷神社(ふだかけいなりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市貝地1-2-64(行き方は上記の通り)。
現在は1つの神社として登録されているが、本来は「札掛神社」と「岡田稲荷神社」である。社伝によれば、「札掛神社」は、常陸大掾・平詮幹(詮国)が「外城」に守護神として鹿島大神の分霊を祀り、家臣の札掛民部介氏俊に命じて奉務させたという。現在の祭神は武甕槌命と札掛民部介氏俊。また、「岡田稲荷神社」は、当地はかつて常陸大掾・平国香の居館跡だったが、近世には寂れて、昼夜、不思議なことが起きて村人に恐れられていた。天保6年(1835年)、岡田彦兵衛の霊夢に「汝の祖先に祀られた館宮稲荷大明神である。天正の変で大掾氏が滅び、汝の祖先も討死にした。再興する者もなく、太平の世を待っていたが、今その時となった。汝の居宅の子(ね。北)の方向に五丈八尺余(=約18m)の大木があり、それが神木で、そこが社地である。速やかに祀れば、汝の家を守り、諸人をも救う。」とのお告げがあった。他にも同様の夢を見た者が多く、早速社殿を建立したところ、噂を聞いた人々の参拝が増え、社頭が賑わったという。現在の祭神は宇賀御魂命。なお、天明4年(1784年)には札掛明神に廻り(幹回り?)3丈(=約9m)という大椎(シイ)があったが、明治4年の「石岡誌」によれば、弘化年中(1844~1848年)に枯死し、文久年中(1861~1864年)に腐朽してしまったという。また、茄子(ナス)を献じて祈願すると成就するといわれるが、これは、大掾浄幹(清幹)の奥方・茄子依御前が深く当神社を崇敬したことによるという。
写真1:「札掛稲荷神社」境内入口の鳥居。説明板は「石岡城(外城)跡」についてのもの。
写真2:同上、鳥居の右側に土塁と堀が残っている。
写真3:同上、土塁上にある「札掛神社岡田稲荷神社」石碑
写真4:同上、境内
写真5:「岡田稲荷神社」社殿
写真6:奥に「札掛神社」社殿。この背後がさらに一段高くなっている。元は城館の櫓台だったともいわれているが、北東端なので鬼門除けに当初から守護神として神社が祀られた可能性も高い。なお、敵方の佐竹氏は常陸国久慈郡佐竹郷(現・常陸太田市)が本拠地だったから、北東側を防御する実際的な意味もあったかもしれない。
写真7:「札掛神社」社殿前から南西を見る。「外城遺跡」は南西側が主要部である(「古館(ふんだて)」などの地名がある。)とされるが、今は畑などがあるだけ。