藤原藤房卿遺跡(ふじわらふじふさきょういせき)。別名:藤原藤房髪塔塚(ふじわらふじふさはつとうづか)。
場所:茨城県土浦市藤沢1797。国道125号線と茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の交差点(通称「藤沢十字路」)から、県道を南へ約450m進んで分岐を右へ(東へ)、更に約100m進んだところ(「防火水そう」の赤い標識がある。)で右折(北へ)。ただし、ここからは狭い道路になり、目的地には駐車場がないので、右折せずに少し先へ進むと、「つくば霞ヶ浦りんりんロード 藤沢休憩所」(旧・「筑波鉄道 藤沢駅」)の駐車場がある。前記の台地上への入口から約160m進んで、突き当りを左折(南西へ)、約60m。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ。藤原は本姓)は、第96代・後醍醐天皇の側近の公卿(正二位・中納言)で、元弘元年(1331年)に天皇の鎌倉幕府打倒の計画(「元弘の乱」)に従ったが、露見して捕らえられた。翌年には常陸国に配流となり、現・茨城県つくば市の小田城主・小田高知(後に治久に改名)に預けられて支城・藤沢城に籠居した。なお、小田高知(治久)は鎌倉幕府側だったが、藤房に感化されてか、後に上洛して後醍醐天皇の南朝方につくことになる。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅ぶと、藤房は京都に戻って復官し、恩賞方の頭人などを務めた。しかし、軍記物語「太平記」などによれば、恩賞の不公平等などに不満を抱き「建武の新政」を批判、建武元年(1334年)に出家してしまい、その後の消息が全く不明となった(出家の理由については、「太平記」の記事と事実が異なることが多々あって、実際は不詳。)。そのため、臨済宗大本山「妙心寺」(「正法山 妙心禅寺」、現・京都市右京区)2世・授翁宗弼と同一人物とする説や、全国各地を行脚した、あるいは中国(元)に行った、という説もあり、そのため、藤房の墓というものが各地にあるという。そのような伝説がある人物なのだが、当地の「藤原藤房卿遺跡」は、藤房が当地に流されたとき、剃髪した髪の毛を約10m四方の塚に埋めたとされるもので、墓ではない。昭和14年に茨城県の史跡に指定されている。
因みに、「藤沢城」は比高約20mの台地上となる元・土浦市藤沢全域を域内とする中世城郭とされるが、城跡らしいものはあまり残っていないようだ。上記の通り、小田氏は南朝方についたため、北朝方の佐竹氏に攻撃されて敗れ、第15代・小田氏治(号・天庵)のときに大名としては滅亡し(氏治自身は徳川家康の次男・結城秀康の客分となり、慶長6年(1601年)に死去した。)、「藤沢城」も廃城となったという。
茨城県教育委員会のHPから(藤原藤房卿遺跡)
写真1:「藤原藤房卿遺跡」入口
写真2:塚の前に3基の石碑。中央は「万里小路藤原藤房公遺蹟」。なお、写真には写っていないが、同じ敷地内に巨大な忠魂碑もある。
写真3:向かって右の石碑は、三島毅撰文の「万里小路藤房公遺迹碑」。三島毅は、大審院判事、東京帝大教授等を務め、現・二松学舎大学を創設するなどした人物。当地とは、新治裁判所長として現・土浦市に赴任していた縁があるとのこと。
写真4:向かって左の石碑(詳細不明)
写真5:塚上の小さな石祠
場所:茨城県土浦市藤沢1797。国道125号線と茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の交差点(通称「藤沢十字路」)から、県道を南へ約450m進んで分岐を右へ(東へ)、更に約100m進んだところ(「防火水そう」の赤い標識がある。)で右折(北へ)。ただし、ここからは狭い道路になり、目的地には駐車場がないので、右折せずに少し先へ進むと、「つくば霞ヶ浦りんりんロード 藤沢休憩所」(旧・「筑波鉄道 藤沢駅」)の駐車場がある。前記の台地上への入口から約160m進んで、突き当りを左折(南西へ)、約60m。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ。藤原は本姓)は、第96代・後醍醐天皇の側近の公卿(正二位・中納言)で、元弘元年(1331年)に天皇の鎌倉幕府打倒の計画(「元弘の乱」)に従ったが、露見して捕らえられた。翌年には常陸国に配流となり、現・茨城県つくば市の小田城主・小田高知(後に治久に改名)に預けられて支城・藤沢城に籠居した。なお、小田高知(治久)は鎌倉幕府側だったが、藤房に感化されてか、後に上洛して後醍醐天皇の南朝方につくことになる。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅ぶと、藤房は京都に戻って復官し、恩賞方の頭人などを務めた。しかし、軍記物語「太平記」などによれば、恩賞の不公平等などに不満を抱き「建武の新政」を批判、建武元年(1334年)に出家してしまい、その後の消息が全く不明となった(出家の理由については、「太平記」の記事と事実が異なることが多々あって、実際は不詳。)。そのため、臨済宗大本山「妙心寺」(「正法山 妙心禅寺」、現・京都市右京区)2世・授翁宗弼と同一人物とする説や、全国各地を行脚した、あるいは中国(元)に行った、という説もあり、そのため、藤房の墓というものが各地にあるという。そのような伝説がある人物なのだが、当地の「藤原藤房卿遺跡」は、藤房が当地に流されたとき、剃髪した髪の毛を約10m四方の塚に埋めたとされるもので、墓ではない。昭和14年に茨城県の史跡に指定されている。
因みに、「藤沢城」は比高約20mの台地上となる元・土浦市藤沢全域を域内とする中世城郭とされるが、城跡らしいものはあまり残っていないようだ。上記の通り、小田氏は南朝方についたため、北朝方の佐竹氏に攻撃されて敗れ、第15代・小田氏治(号・天庵)のときに大名としては滅亡し(氏治自身は徳川家康の次男・結城秀康の客分となり、慶長6年(1601年)に死去した。)、「藤沢城」も廃城となったという。
茨城県教育委員会のHPから(藤原藤房卿遺跡)
写真1:「藤原藤房卿遺跡」入口
写真2:塚の前に3基の石碑。中央は「万里小路藤原藤房公遺蹟」。なお、写真には写っていないが、同じ敷地内に巨大な忠魂碑もある。
写真3:向かって右の石碑は、三島毅撰文の「万里小路藤房公遺迹碑」。三島毅は、大審院判事、東京帝大教授等を務め、現・二松学舎大学を創設するなどした人物。当地とは、新治裁判所長として現・土浦市に赴任していた縁があるとのこと。
写真4:向かって左の石碑(詳細不明)
写真5:塚上の小さな石祠