神が宿るところ

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辨壽山 正智院 佛性寺

2021-03-20 23:44:50 | 寺院
辨壽山 正智院 佛性寺(べんじゅさん しょうちいん ぶっしょうじ)。通称:栗山観音。
場所:茨城県結城郡八千代町栗山476。茨城県道20号線(結城坂東線)から「安静小学校」の北側の道路に入って東へ進み、途中「八千代病院」」前を通って約1.1kmで突き当り右折(南へ)、約130mで突き当り左折(東へ)、約160m進むとまた突き当り。右折して(南へ)約210m進んだ左側(東側)が参道入口だが、ここからは自動車は入れない。最後の突き当りを左折して(北へ)直ぐ(約20m)に右折して(東へ)、約100m進んだところが当寺院の裏手で、駐車場が有る。
寺伝によれば、天平11年(739年)、第45代・聖武天皇の詔により創建されたという。「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」には、承平7年(937年)、将門の敵方・平良兼が「下総国豊田郡栗栖院常羽御厨及び百姓の舎宅を焼き掃う。」(読み下し文)とある。この「栗栖院」が寺院の名なのか、地名(行政区画)なのか、異論がある。つまり、「来栖院」という寺院と「常羽御厩」と民家を焼き払ったと読むか、豊田郡来栖にある「常羽御厩」と民家を焼き払ったと読むかという問題である。「来栖院」を寺院とする説では、当寺院をその後身とするが、地名とする説でも、それが現・八千代町栗山であるとするので、当寺院が承平7年に焼失したことを否定するものではない。その後の消息は不明だが、戦国時代の永禄9年(1566年)、(下妻)多賀谷城主・多賀谷重経が再建するも、再び兵火に罹り焼失。江戸時代の延宝8年(1680年)に観音堂が建立され、元は現在地の南にある「古堂」という場所にあったのを、享保20年(1735年)に現在地に移転した(観音堂は移築)したという。現在は天台宗山門派に属し、本尊は阿弥陀如来。なお、観音堂は江戸時代前期の建立だが、内陣には須弥檀を設けて宮殿を安置するなど、内部架構は禅宗様の手法が取り入れられており、あるいは堂本体より古い可能性があるとのこと。観音堂の本尊は、平安時代初期の作とされる薬師如来坐像(木心乾漆如来形坐像)で、関東~東北で最も古い木彫像の一つという。像高は59.4cmで、乾漆部分が剥落し欅材の木心が露出しているが、両足部分の乾漆断片64片が残っていて、木心乾漆造という技法は9世紀頃には廃れてしまうので、平安時代初期のものということになる。御開帳は33年に一度という秘仏で、最近は平成28年だったとのこと。
さて、「常羽御厩(いくはのみうまや)」についてであるが、次のような説がある。「延喜式」兵部省の項に見える所謂「下総五牧」の1つ「大結馬牧」は、最初は現・茨城県常総市古間木に設けられ、同・大生郷町駒込に官厩が置かれたが、狭いため現・八千代町大間木に移転し、官厩は現・八千代町栗山に置かれたとして、これが「常羽御厩」に当たるとするものである。大間木は栗山の西隣で、栗山の南隣には常総市馬場という大字がある。馬場に白山(城山)というところがあるが、ここに「常羽御厩」の別当・多治経明の居館があったという。多治経明は平将門の腹心で、後に将門から上野守を私綬される武将である。こうしたことから、将門は官牧の牧司ではなかったか、ともいわれる。「大結馬牧」の場所は、現・千葉県船橋市とする説もあり、まだ特定されていないが、「御厩」という敬称を付けられていることなどもあり、可能性はあるようだ(敬称については、官牧ではなく、伊勢神宮などに馬を供給していたからとの説もある。)。いずれにせよ、多数の馬を保有していたことが将門の強さの一因であったことは確かで、だからこそ、平良兼は「常羽御厩」を焼き討ちにしたのだろう。なお、「佛性寺」の南、約2km(直線距離)の常総市馬場の茨城県道217号線(皆葉崎房線)交差点付近に「平将門公史跡 常羽御厩兵馬調練之馬場跡」の石碑と説明板が建てられている。
蛇足:(伝説)平良兼の焼き討ちに遭って「来栖院」(現・「佛性寺」)は焼失したが、観音菩薩は多治経明の家来・横島という者が現・茨城県坂東市長谷に移した(このため、現・「佛性寺」観音堂に観音像はないのだという。)。このとき、良兼の軍勢は戦利品として、梵鐘を奪い取った。当時、「栗栖院」は飯沼の谷津に面しており,梵鐘を船に載せて運ぶ途中、沼の最も深いところに差し掛かったとき、梵鐘が大きな音を立てた。音はどんどん大きくなり、雷鳴のようになって、沼の真ん中で船は転覆し、梵鐘は沼に沈んだ。その後、何百年も経ってから、永禄9年に「栗山観音堂」が再建されると、梵鐘が沈んだ沼から毎晩のように火の玉が浮かび出て,「栗山観音堂」の境内に入り込むと、ふっと消えるという怪異が起こった。村人たちはこの鬼火を沼に沈んだ梵鐘の怨念だろうと思い、その祟りを恐れた。そこで、「栗山観音堂」の住職が梵鐘供養のための大法要を行ったところ、怪異はなくなったという。


写真1:「佛性寺」参道入口。砂利道をゆっくりと上って行く。


写真2:参道入口にある弁財天堂


写真3:仁王門。仁王門は安永3年(1774年)の建立で、楼門形式は茨城県内では珍しいものという。


写真4:仁王門を潜ると、正面に観音堂。仁王門とともに茨城県指定有形文化財(建造物)。中に安置された薬師如来像は茨城県指定有形文化財(彫刻)。


写真5:観音堂の軒の組物


写真6:「栗山観音由来碑」


写真7:観音堂の後ろにある講の記念碑。「男體山」(向かって右)は「日光二荒山神社」登拝講、「太神宮」は伊勢講のものと思われる。


写真8:本堂


写真9:「平将門公史跡 常羽御厩兵馬調練之馬場跡」石碑(場所:茨城県常総市馬場439付近。県道の交差点の直ぐ傍で、駐車スペースがないので注意。)
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