秋嶠山 地蔵院 妙法寺(しゅうきょうざん じぞういん みょうほうじ)。
場所:茨城県桜川市本郷13。茨城県道・栃木県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から北へ約210mで右折(東へ)、通称「小栗街道」を約2.8km進んで「下泉集会所」のところ(「妙法寺→」の案内標識がある。)を右折(南へ)、約400m進んだ交差点の右(西)側が境内入口。駐車場あり。
寺伝によれば、延暦年間(782~806年)、下野国「小野寺山 大慈寺」(現・栃木県栃木市)の広智国講師が、常陸国坂戸庄上野原地に草堂を建て、「晶屋精舎(あきやしょうじゃ)」と称したのが始まり。 仁寿年間(851~854年)に円仁(慈覚大師。第3代天台座主)が諸堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置して、「阿炬那摩山 顕法憧園(あきやまさん けんほうどうえん)」と改称した。 よって、草創を広智国講師とし、開基を慈覚大師とする。延喜年間(901~922年)には亭珍阿闍梨が中興し、「阿幾那摩山 十輪院 妙法寺」と改称した。「平将門の乱」(天慶2年(939年))の折、兵火により諸堂は灰燼に帰した。しかし、このとき、本尊の地蔵菩薩は沼のほとりに逃れて、無事だった。以来、水縁地蔵尊、後に水引地蔵尊と呼ばれるようになった。寛治年間(1087~1094年)、板戸判官・藤原範明が奥州討伐を祈願し、その宿願が叶ったとして、報謝のために堂塔を再建。塔頭10ヵ坊・末寺10ヵ寺を有し、現在の「秋嶠山 地蔵院 妙法寺」に改称した。応仁年間(1467~1469年)、火災により焼失、元亀年間(1570~1573年)、現在地に移転した。現在は天台宗の寺院で、本尊は水引地蔵菩薩。なお、ほかにも多くの仏像があり、木造の阿弥陀如来坐像・伝観音菩薩立像・伝虚空蔵菩薩立像などは平安時代の9~10世紀頃の作とされ、茨城県指定文化財。関東百八地蔵尊霊場第61番札所・茨城百八地蔵尊霊場第34番札所、北関東三十六不動尊霊場第33番札所(通称:金色不動尊)となっている。
また、本堂に瞬義上人の即身仏が安置されている(即身仏の本堂安置は、関東で唯一という。)。瞬義上人は鎌倉「宝戒寺」住職だったが、69歳のとき、弟子が住職をしていた当寺院に隠居し、貞享3年(1686年)、78歳のとき、衆生済度のため入定した。遺体は7日間の法要の後、石造阿弥陀仏の胎内に納めた(当寺院の辺りは湿地帯で、土に埋めると腐敗してしまうと考えられたためという。)。安永2年(1773年)、住職の夢枕に立った上人が「再びこの世に出て衆生を救済しよう」と告げたため、石仏を開けて、即身仏となった上人を取り出したという(拝観は要予約)。
なお、当寺院の元の所在地は現在地より南方約750mの地点で、そこには「上野原廃寺跡」という遺跡があり、9世紀頃の瓦が出土している。そこから南西約800mのところに「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)があるが、この寺院は「新治郡家」(「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事)の付属寺院(いわゆる「郡寺」)だったとみられている。「新治廃寺」は、弘仁8年(817年)に「新治郡家」が火災で焼失した(「日本後記」記事)ときに、類焼して廃絶したとされているところから、当寺院に9~10世紀にかけての諸像が伝わっているということは、あるいは、当寺院が「新治廃寺」の機能を継承したのではないかとも考えられている。
茨城県教育委員会のHPから(木造 阿弥陀如来坐像及菩薩立像(伝観音菩薩)・天部立像(伝虚空蔵菩薩)、木造 四天王立像 7躯)
写真1:「妙法寺」山門。桜川市指定文化財。
写真2:山門前にある巨木の切り株
写真3:不動明王の眷属である三十六童子のうち、普香王童子の像。その背後に見えるのは「妙法稲荷神社」の鳥居
写真4:「瞬義上人入定の石佛」。鐘楼門の前にある。蓮華座のところから上下に分かれ、刳りぬかれた石仏の中に、入定した瞬義上人が入れられていたという。思ったよりかなり小さい。
写真5:鐘楼門
写真6:本堂
場所:茨城県桜川市本郷13。茨城県道・栃木県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から北へ約210mで右折(東へ)、通称「小栗街道」を約2.8km進んで「下泉集会所」のところ(「妙法寺→」の案内標識がある。)を右折(南へ)、約400m進んだ交差点の右(西)側が境内入口。駐車場あり。
寺伝によれば、延暦年間(782~806年)、下野国「小野寺山 大慈寺」(現・栃木県栃木市)の広智国講師が、常陸国坂戸庄上野原地に草堂を建て、「晶屋精舎(あきやしょうじゃ)」と称したのが始まり。 仁寿年間(851~854年)に円仁(慈覚大師。第3代天台座主)が諸堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置して、「阿炬那摩山 顕法憧園(あきやまさん けんほうどうえん)」と改称した。 よって、草創を広智国講師とし、開基を慈覚大師とする。延喜年間(901~922年)には亭珍阿闍梨が中興し、「阿幾那摩山 十輪院 妙法寺」と改称した。「平将門の乱」(天慶2年(939年))の折、兵火により諸堂は灰燼に帰した。しかし、このとき、本尊の地蔵菩薩は沼のほとりに逃れて、無事だった。以来、水縁地蔵尊、後に水引地蔵尊と呼ばれるようになった。寛治年間(1087~1094年)、板戸判官・藤原範明が奥州討伐を祈願し、その宿願が叶ったとして、報謝のために堂塔を再建。塔頭10ヵ坊・末寺10ヵ寺を有し、現在の「秋嶠山 地蔵院 妙法寺」に改称した。応仁年間(1467~1469年)、火災により焼失、元亀年間(1570~1573年)、現在地に移転した。現在は天台宗の寺院で、本尊は水引地蔵菩薩。なお、ほかにも多くの仏像があり、木造の阿弥陀如来坐像・伝観音菩薩立像・伝虚空蔵菩薩立像などは平安時代の9~10世紀頃の作とされ、茨城県指定文化財。関東百八地蔵尊霊場第61番札所・茨城百八地蔵尊霊場第34番札所、北関東三十六不動尊霊場第33番札所(通称:金色不動尊)となっている。
また、本堂に瞬義上人の即身仏が安置されている(即身仏の本堂安置は、関東で唯一という。)。瞬義上人は鎌倉「宝戒寺」住職だったが、69歳のとき、弟子が住職をしていた当寺院に隠居し、貞享3年(1686年)、78歳のとき、衆生済度のため入定した。遺体は7日間の法要の後、石造阿弥陀仏の胎内に納めた(当寺院の辺りは湿地帯で、土に埋めると腐敗してしまうと考えられたためという。)。安永2年(1773年)、住職の夢枕に立った上人が「再びこの世に出て衆生を救済しよう」と告げたため、石仏を開けて、即身仏となった上人を取り出したという(拝観は要予約)。
なお、当寺院の元の所在地は現在地より南方約750mの地点で、そこには「上野原廃寺跡」という遺跡があり、9世紀頃の瓦が出土している。そこから南西約800mのところに「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)があるが、この寺院は「新治郡家」(「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事)の付属寺院(いわゆる「郡寺」)だったとみられている。「新治廃寺」は、弘仁8年(817年)に「新治郡家」が火災で焼失した(「日本後記」記事)ときに、類焼して廃絶したとされているところから、当寺院に9~10世紀にかけての諸像が伝わっているということは、あるいは、当寺院が「新治廃寺」の機能を継承したのではないかとも考えられている。
茨城県教育委員会のHPから(木造 阿弥陀如来坐像及菩薩立像(伝観音菩薩)・天部立像(伝虚空蔵菩薩)、木造 四天王立像 7躯)
写真1:「妙法寺」山門。桜川市指定文化財。
写真2:山門前にある巨木の切り株
写真3:不動明王の眷属である三十六童子のうち、普香王童子の像。その背後に見えるのは「妙法稲荷神社」の鳥居
写真4:「瞬義上人入定の石佛」。鐘楼門の前にある。蓮華座のところから上下に分かれ、刳りぬかれた石仏の中に、入定した瞬義上人が入れられていたという。思ったよりかなり小さい。
写真5:鐘楼門
写真6:本堂
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