地蔵田遺跡(じぞうでんいせき)。
場所:秋田県秋田市御所野地蔵田3丁目。御所野学院中学校・高校の南、約500m。「御所野総合公園」の南西側。駐車場有り。
「地蔵田遺跡」は秋田市南東部、雄物川とのその支流・岩見川の合流点を見下ろす御所野台地の南端にあり、標高30~40mの東西に長い舌状台地上に立地する旧石器時代・縄文時代・弥生時代の複合遺跡。特に注目されたのは弥生時代前期の集落跡で、農耕文化を持った人々が移住してきて集落を形成したこと、居住区を木柵で囲んでいたこと、その外に墓地があったことなどがわかり、貴重な遺跡として平成8年に国史跡として指定された。現在、竪穴式住居、木柵、墓地などが復元されている。
このブログでは弥生時代以前の遺跡はあまり採り上げないのだが、「地蔵田遺跡」がある御所野台地に所謂「河辺府」があったという郷土史家の説があったこともあり、訪問してみた。「河辺府」は、蝦夷の反乱によって「秋田城」が保ち難くなり、宝亀6年(775年)には国府移転論議が起こり、延暦23年(804年)には「秋田城」を停廃して「河辺府」に移転した、ということが「続日本紀」にみえる。しかし、この「河辺府」がどこにあったのか、はっきりわかっていない。出羽国府が一貫して現・山形県庄内地方にあったとする説では、「河辺府」とは「河辺郡衙」のことである、とするが、その場所について明示はされていないようである。通説は、蝦夷の勢力によって出羽国府が「秋田城」から南に押し戻されたのだと考えるが、その場所については諸説ある。その1つが、この「御所野台地」のどこか、ということになるのだが、今では「御所野ニュータウン」として秋田市郊外の大きな住宅団地となっているが、近世には河辺郡四ツ小屋村に属しており、「地蔵田遺跡」のように古くから集落が形成されていた場所であることから、ここに河辺郡の中心地があってもおかしくはない、ということのようだ。
古代から出羽国に「河辺郡」があったのは確かであるが、古代と近世では郡域は同じではないようで、また、時期によっても変遷があるようなのではっきりしないが、ただ、国府移転が論議されるような状況にある中では「秋田城」との距離が近すぎる(直線距離で約11km)ようであるし、奈良・平安時代の官衙跡は発見されていないことでもあり、やや無理がある説かと思われる。
秋田市のHPから(国指定史跡 地蔵田遺跡について)
写真1:復元された「地蔵田遺跡」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/58/d486660893a87ddc198a93de6e3a962e.jpg)
写真2:木柵で囲まれた中に竪穴式住居。出入口に鳥居のような門?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/17/1f66238fdb35512f2aed6d24a2314c44.jpg)
写真3:墓地(復元)。墓地からは人骨は発見されなかったが、勾玉・管玉などが出土した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/6d/5d2fc340e51714373d4aa32a0720a08f.jpg)
写真4:土器棺墓(復元)
場所:秋田県秋田市御所野地蔵田3丁目。御所野学院中学校・高校の南、約500m。「御所野総合公園」の南西側。駐車場有り。
「地蔵田遺跡」は秋田市南東部、雄物川とのその支流・岩見川の合流点を見下ろす御所野台地の南端にあり、標高30~40mの東西に長い舌状台地上に立地する旧石器時代・縄文時代・弥生時代の複合遺跡。特に注目されたのは弥生時代前期の集落跡で、農耕文化を持った人々が移住してきて集落を形成したこと、居住区を木柵で囲んでいたこと、その外に墓地があったことなどがわかり、貴重な遺跡として平成8年に国史跡として指定された。現在、竪穴式住居、木柵、墓地などが復元されている。
このブログでは弥生時代以前の遺跡はあまり採り上げないのだが、「地蔵田遺跡」がある御所野台地に所謂「河辺府」があったという郷土史家の説があったこともあり、訪問してみた。「河辺府」は、蝦夷の反乱によって「秋田城」が保ち難くなり、宝亀6年(775年)には国府移転論議が起こり、延暦23年(804年)には「秋田城」を停廃して「河辺府」に移転した、ということが「続日本紀」にみえる。しかし、この「河辺府」がどこにあったのか、はっきりわかっていない。出羽国府が一貫して現・山形県庄内地方にあったとする説では、「河辺府」とは「河辺郡衙」のことである、とするが、その場所について明示はされていないようである。通説は、蝦夷の勢力によって出羽国府が「秋田城」から南に押し戻されたのだと考えるが、その場所については諸説ある。その1つが、この「御所野台地」のどこか、ということになるのだが、今では「御所野ニュータウン」として秋田市郊外の大きな住宅団地となっているが、近世には河辺郡四ツ小屋村に属しており、「地蔵田遺跡」のように古くから集落が形成されていた場所であることから、ここに河辺郡の中心地があってもおかしくはない、ということのようだ。
古代から出羽国に「河辺郡」があったのは確かであるが、古代と近世では郡域は同じではないようで、また、時期によっても変遷があるようなのではっきりしないが、ただ、国府移転が論議されるような状況にある中では「秋田城」との距離が近すぎる(直線距離で約11km)ようであるし、奈良・平安時代の官衙跡は発見されていないことでもあり、やや無理がある説かと思われる。
秋田市のHPから(国指定史跡 地蔵田遺跡について)
写真1:復元された「地蔵田遺跡」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/58/d486660893a87ddc198a93de6e3a962e.jpg)
写真2:木柵で囲まれた中に竪穴式住居。出入口に鳥居のような門?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/17/1f66238fdb35512f2aed6d24a2314c44.jpg)
写真3:墓地(復元)。墓地からは人骨は発見されなかったが、勾玉・管玉などが出土した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/6d/5d2fc340e51714373d4aa32a0720a08f.jpg)
写真4:土器棺墓(復元)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/aa/45d4b2ab19ab915b79ece1a6e47d17eb.jpg)
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