北向観音堂(きたむきかんのんどう)。
場所:茨城県石岡市小野越。茨城県道138号線(石岡つくば線)「辻」交差点から西へ約1.7km。参道入口に手作りの案内板があり、向かい側に駐車場がある。参道(畦道)を南に徒歩約2分で、観音堂境内入口。
茨城県土浦市(旧・新治村)小野に平安時代前期(9世紀頃)の女流歌人・小野小町の「腰掛石」や「墓」とされるものがあることについて、以前に書いた(「小野小町の腰掛石」(2020年8月8日記事))。小町は有名な歌人で、絶世の美女とされるのに、出自も没年も不明。晩年は不遇で、伝承では各地を放浪して寂しく亡くなったということになっている。土浦市小野には、高齢となり皮膚病を患った小町が「北向観音堂」に病気平癒を祈願するため峠越えをしたとの伝説があるが、その観音堂が茨城県石岡市(旧・八郷町)小野越(おのごえ)にある。社寺は一般に南向きだが、仏堂が北向きであれば拝礼する人は南向き(天竺の方向)となり、現世利益が得られやすいともいうので、北向きの仏堂は案外多いようだ(石岡市には「富田北向観音堂」(2023年11月18日記事)もある。)。
さて、小野越の「北向観音堂」は、現・石岡市仏生寺字観音というところにあった「龍光院」(廃寺)の別院であるという。伝説によれば、天平年間(729~749年)に僧・行基が常陸国府に来た折、夜に怪しい光を見て老翁の指示に従い仏像を刻ませたので、里人が一寺を建立した。瑞気を発したところに建てたのが「龍光院」(本尊:阿弥陀如来)で、怪光を発したところに建てたのが「北向観音堂」とされる。堂本尊の観音像は、行基が奈良から連れてきた稽主勲兄弟作の十一面観世音菩薩だったと伝えられるが、その像は古い時代に失われ、現存のものは江戸時代の聖観世音菩薩であるという。なお、境内やその周辺に、「いぼ神様」という霊石、「小町の化粧清水」、「姿見の池」、「硯石」、「腰掛石」などがある。
石岡市観光協会のHPから(北向観音堂(小野越))
写真1:「北向観音堂」境内入口
写真2:忠魂碑
写真3:その右に「小町の化粧清水」
写真4:石段下左手にある「いぼ神様」
写真5:苔むした石段を上る。
写真6:観音堂
写真7:石仏(地蔵菩薩?)
場所:茨城県石岡市小野越。茨城県道138号線(石岡つくば線)「辻」交差点から西へ約1.7km。参道入口に手作りの案内板があり、向かい側に駐車場がある。参道(畦道)を南に徒歩約2分で、観音堂境内入口。
茨城県土浦市(旧・新治村)小野に平安時代前期(9世紀頃)の女流歌人・小野小町の「腰掛石」や「墓」とされるものがあることについて、以前に書いた(「小野小町の腰掛石」(2020年8月8日記事))。小町は有名な歌人で、絶世の美女とされるのに、出自も没年も不明。晩年は不遇で、伝承では各地を放浪して寂しく亡くなったということになっている。土浦市小野には、高齢となり皮膚病を患った小町が「北向観音堂」に病気平癒を祈願するため峠越えをしたとの伝説があるが、その観音堂が茨城県石岡市(旧・八郷町)小野越(おのごえ)にある。社寺は一般に南向きだが、仏堂が北向きであれば拝礼する人は南向き(天竺の方向)となり、現世利益が得られやすいともいうので、北向きの仏堂は案外多いようだ(石岡市には「富田北向観音堂」(2023年11月18日記事)もある。)。
さて、小野越の「北向観音堂」は、現・石岡市仏生寺字観音というところにあった「龍光院」(廃寺)の別院であるという。伝説によれば、天平年間(729~749年)に僧・行基が常陸国府に来た折、夜に怪しい光を見て老翁の指示に従い仏像を刻ませたので、里人が一寺を建立した。瑞気を発したところに建てたのが「龍光院」(本尊:阿弥陀如来)で、怪光を発したところに建てたのが「北向観音堂」とされる。堂本尊の観音像は、行基が奈良から連れてきた稽主勲兄弟作の十一面観世音菩薩だったと伝えられるが、その像は古い時代に失われ、現存のものは江戸時代の聖観世音菩薩であるという。なお、境内やその周辺に、「いぼ神様」という霊石、「小町の化粧清水」、「姿見の池」、「硯石」、「腰掛石」などがある。
石岡市観光協会のHPから(北向観音堂(小野越))
写真1:「北向観音堂」境内入口
写真2:忠魂碑
写真3:その右に「小町の化粧清水」
写真4:石段下左手にある「いぼ神様」
写真5:苔むした石段を上る。
写真6:観音堂
写真7:石仏(地蔵菩薩?)
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