真壁城跡(まかべじょうあと)。
場所:茨城県桜川市真壁町古城377(「桜川市立真壁体育館」の住所)。茨城県道41号線(つくば益子線)「古城」交差点から北へ約120m、右側(東側)に「真壁体育館」駐車場への入口がある。「真壁体育館」のある場所が「真壁城」本丸跡とされる。
「真壁城跡」は、平安時代末から戦国時代にかけて常陸国真壁郡周辺を支配した真壁氏の居城(中世城館)跡とされる。常陸平氏の惣領家・多気氏の祖とされる多気直幹の四男・長幹が承安2年(1172年)に真壁郡の郡司となり、真壁氏を名乗った。長幹が源頼朝に臣従して御家人となった後、南北朝時代には、真壁氏は最初に南朝方、後に北朝方について、室町幕府の御家人(京都扶持衆)となったが、応永30年(1423年)、大掾氏の一族である小栗氏の反乱に加担したとして「真壁城」は落城、第11代城主・秀幹は戦死した。永享8年(1436年)、庶子家出身の朝幹が所領を回復し、家督を承継した(第13代)。戦国時代には佐竹氏の家臣となっていたため、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に移封となると、これに第19代・房幹らが随行し、「真壁城」は空城となった。その後、浅野氏が城主となったが、真壁を領有したまま「笠間城」(現・茨城県笠間市)に移ったため、「真壁城」は廃城になったとされる(なお、笠間藩の陣屋は旧・真壁町市街地にあった。)。
昭和56年以降の発掘調査の結果、「真壁城跡」は15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、その後の改変を経て、現在の遺構は16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)頃のものとされている。土塁や堀跡などが良好に残っていることから、昭和9年に茨城県指定史跡、平成6年に国指定史跡となった。
さて、伝承によれば、「真壁城」は、真壁長幹が真壁郡司になったとき、「真壁郡家(郡衙)」の場所に築城したのが最初、といわれている。ただし、「真壁城跡」の発掘調査では、15世紀前葉以前の遺構は出土していない。一方で、少なくとも奈良時代~平安時代初期の白壁郡(延暦4年(785年)に真壁郡に改称)の郡家は現・桜川市真壁町下谷貝の「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」(前項)付近にあったという説が有力である。そうすると、「真壁郡家」は「真壁城跡」付近に移転したのか(もちろん、最初から「真壁城跡」付近にあったとする説もある。)、移転したとするなら、いつ移転したのか、なぜ移転したのか、という問題も出てくるが、そのあたりの解明は今のところ難しそうである。
桜川市観光協会のHPから(国史跡 真壁城跡)
写真1:「国指定史跡 真壁城跡」石碑。本丸跡とされる「真壁体育館」の駐車場にある。
写真2:「真壁城跡」説明版。この奥が二の丸方面。さらに奥には中城、外曲輪などがあったとされる。お城好き(マニア)なら、いろいろ蘊蓄があるのだろうが、このブログではスルー(申し訳ない。)。
写真3:「真壁体育館」と駐車場
写真4:「子育稲荷神社」鳥居。境内は、本丸跡の北側、本丸搦手虎口に当たる。
写真5:同上、社殿。「真壁城」廃城の後の創建という。
写真6:「史蹟 真壁城址」石碑。昭和10年建立。「子育稲荷神社」社殿の近くにある。
場所:茨城県桜川市真壁町古城377(「桜川市立真壁体育館」の住所)。茨城県道41号線(つくば益子線)「古城」交差点から北へ約120m、右側(東側)に「真壁体育館」駐車場への入口がある。「真壁体育館」のある場所が「真壁城」本丸跡とされる。
「真壁城跡」は、平安時代末から戦国時代にかけて常陸国真壁郡周辺を支配した真壁氏の居城(中世城館)跡とされる。常陸平氏の惣領家・多気氏の祖とされる多気直幹の四男・長幹が承安2年(1172年)に真壁郡の郡司となり、真壁氏を名乗った。長幹が源頼朝に臣従して御家人となった後、南北朝時代には、真壁氏は最初に南朝方、後に北朝方について、室町幕府の御家人(京都扶持衆)となったが、応永30年(1423年)、大掾氏の一族である小栗氏の反乱に加担したとして「真壁城」は落城、第11代城主・秀幹は戦死した。永享8年(1436年)、庶子家出身の朝幹が所領を回復し、家督を承継した(第13代)。戦国時代には佐竹氏の家臣となっていたため、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に移封となると、これに第19代・房幹らが随行し、「真壁城」は空城となった。その後、浅野氏が城主となったが、真壁を領有したまま「笠間城」(現・茨城県笠間市)に移ったため、「真壁城」は廃城になったとされる(なお、笠間藩の陣屋は旧・真壁町市街地にあった。)。
昭和56年以降の発掘調査の結果、「真壁城跡」は15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、その後の改変を経て、現在の遺構は16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)頃のものとされている。土塁や堀跡などが良好に残っていることから、昭和9年に茨城県指定史跡、平成6年に国指定史跡となった。
さて、伝承によれば、「真壁城」は、真壁長幹が真壁郡司になったとき、「真壁郡家(郡衙)」の場所に築城したのが最初、といわれている。ただし、「真壁城跡」の発掘調査では、15世紀前葉以前の遺構は出土していない。一方で、少なくとも奈良時代~平安時代初期の白壁郡(延暦4年(785年)に真壁郡に改称)の郡家は現・桜川市真壁町下谷貝の「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」(前項)付近にあったという説が有力である。そうすると、「真壁郡家」は「真壁城跡」付近に移転したのか(もちろん、最初から「真壁城跡」付近にあったとする説もある。)、移転したとするなら、いつ移転したのか、なぜ移転したのか、という問題も出てくるが、そのあたりの解明は今のところ難しそうである。
桜川市観光協会のHPから(国史跡 真壁城跡)
写真1:「国指定史跡 真壁城跡」石碑。本丸跡とされる「真壁体育館」の駐車場にある。
写真2:「真壁城跡」説明版。この奥が二の丸方面。さらに奥には中城、外曲輪などがあったとされる。お城好き(マニア)なら、いろいろ蘊蓄があるのだろうが、このブログではスルー(申し訳ない。)。
写真3:「真壁体育館」と駐車場
写真4:「子育稲荷神社」鳥居。境内は、本丸跡の北側、本丸搦手虎口に当たる。
写真5:同上、社殿。「真壁城」廃城の後の創建という。
写真6:「史蹟 真壁城址」石碑。昭和10年建立。「子育稲荷神社」社殿の近くにある。
いつもありがとうございます。
そちらのブログにあったように、お城巡りされる方には、南東奧の「鹿島神社」周辺にお城らしい遺構が多いので、見どころが多いと思います。
私の興味は真壁郡家にあったので、奧のほうまで進みませんでしたが、まだ今になっても工事中のところが多かったように思います(草ぼうぼうという感じではなくなっていましたが。)。
是非またお出かけください。
城址巡りを主にしていたころ、2012年9月に行ったことが懐かしく思い出されました
真壁城跡は整備途中だった記憶が有りますが、綺麗になったのかな
又行ってみたいと思います