施無畏山 延命院 觀音寺(せむいさん えんめいいん かんのんじ)。通称:中館観音寺。
場所:茨城県筑西市中舘522-1。国道50号線(下館バイパス)「中館」交差点から北へ約600m、「八幡神社」の裏(北側)の道路に右折(東へ)、約200mで境内入口前となるが、自動車は「八幡神社」裏(「天台宗 法華三昧之道場 觀音寺」の寺号標?がある。)のスペースか、境内入口前の切通しを通り過ぎて五行川(勤行川)を渡った先の「勤行緑地」駐車場を利用。
寺伝等によれば、第31代・用明天皇の時代(585~587年)、中国(梁)から渡来した法輪独守居士が当地に観音菩薩像を安置したのを創建とする(法輪独守居士は「雨引山 楽法寺」(2018年11月17日記事)も創建している。)。当時、当地では疫病が流行っていたが、法輪独守居士が祈願したところ、中舘台地崖下より清らかな水が湧き出し、この水を飲んだ人々は忽ち疫病が治ったという。大化2年(646年)にも、時の左大臣・阿部倉梯の姫の熱病を平癒した霊験があり、孝徳天皇から「延命」という称を賜ったと伝えられる。文治5年(1189年)、中村(藤原)常陸介朝宗が源頼朝麾下の武将として「奥州合戦」に4人の息子と共に前衛として出陣する際、当寺院に戦勝を祈願した。「奥州合戦」での戦功により陸奥国伊達郡(現・福島県伊達市ほか)を所領として与えられ、以降、伊達氏を名乗った。その後、伊達郡は次男・宗村が相続したので、朝宗又は宗村が奥州伊達氏の始祖とされる。江戸時代になっても、当地領主に加え、仙台藩主の帰依が篤く、仙台藩第4代藩主・伊達綱村から飛び地の龍ヶ崎領(常陸国河内郡龍ヶ崎村、現・茨城県龍ケ崎市)から50石を永代寄進されたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で、筑西市指定文化財。また、観音堂本尊の観音菩薩は、カヤ材の寄木造の立像で高さ約102cm、鎌倉時代の作とされ、大正11年に国宝指定、昭和25年に国指定重要文化財となっている。秘仏だが、年1回御開帳がある。延命観世音菩薩と称し、六臂あるのが特徴。
なお、当地には中世城館「伊佐城」があったとされ、茨城県指定史跡となっている。当寺院本堂付近が二の丸跡といわれ、「伊佐城址」石碑が建てられている。築城時期・築城者は不明だが、上記の中村常陸介朝宗が築城したとの説があり、当地(常陸国伊佐郡)は朝宗の長男・伊佐為宗が相続したので、その一族が居城としたのかもしれない。伝説では、天慶3年(940年)、下野押領使・藤原秀郷(通称:俵藤太)が平将門追討の際に「上館(元館)」・「中館」・「下館」の3館を築いたとされ、「中館」を伊佐氏が改修したものともいわれる。「伊佐城」は、南北朝時代、南朝方について戦ったが、北朝方の高師冬に攻められて興国4年(1343年)に落城し、以後廃城となったという。
天台宗 施無畏山延命院 觀音寺のHP
写真1:「茨城百景 中館観音と下館近郊」石碑
写真2:「國宝中舘觀世音」石碑。観音堂本尊の観音像がいわゆる旧国宝であったことを示すもの。境内に入るため石橋(「延命橋」という名がついている。)を渡る。この下は切通しで、かつて当地が中世城館であったときの堀跡といわれている。
写真3:「觀音寺」観音堂.。江戸時代中期頃の建築で、筑西市指定文化財。
写真4:同上、彫刻が素晴らしい。
写真5:「伊達行朝公供養塔」(覆屋)。中に石塔がある。伊達氏第7代・伊達行朝の供養塔という。筑西市指定文化財。
写真6:「延命水」。台地下、五行川畔に下りたところにある。木の根元から今も清水が湧いているが、水量は多くはなく、残念ながら飲用には適さないようである。
写真7:大門(山門)。「下館城」大手門の移築との伝承がある。
写真8:「下館藩主石川総管公墓所」。第9代下館藩主(最後の藩主で、初代下館藩知事。子爵)・石川総管の墓所。筑西市指定文化財。
写真9:本堂
写真10:同上
写真11:本堂横にある「伊佐城址」石碑。
場所:茨城県筑西市中舘522-1。国道50号線(下館バイパス)「中館」交差点から北へ約600m、「八幡神社」の裏(北側)の道路に右折(東へ)、約200mで境内入口前となるが、自動車は「八幡神社」裏(「天台宗 法華三昧之道場 觀音寺」の寺号標?がある。)のスペースか、境内入口前の切通しを通り過ぎて五行川(勤行川)を渡った先の「勤行緑地」駐車場を利用。
寺伝等によれば、第31代・用明天皇の時代(585~587年)、中国(梁)から渡来した法輪独守居士が当地に観音菩薩像を安置したのを創建とする(法輪独守居士は「雨引山 楽法寺」(2018年11月17日記事)も創建している。)。当時、当地では疫病が流行っていたが、法輪独守居士が祈願したところ、中舘台地崖下より清らかな水が湧き出し、この水を飲んだ人々は忽ち疫病が治ったという。大化2年(646年)にも、時の左大臣・阿部倉梯の姫の熱病を平癒した霊験があり、孝徳天皇から「延命」という称を賜ったと伝えられる。文治5年(1189年)、中村(藤原)常陸介朝宗が源頼朝麾下の武将として「奥州合戦」に4人の息子と共に前衛として出陣する際、当寺院に戦勝を祈願した。「奥州合戦」での戦功により陸奥国伊達郡(現・福島県伊達市ほか)を所領として与えられ、以降、伊達氏を名乗った。その後、伊達郡は次男・宗村が相続したので、朝宗又は宗村が奥州伊達氏の始祖とされる。江戸時代になっても、当地領主に加え、仙台藩主の帰依が篤く、仙台藩第4代藩主・伊達綱村から飛び地の龍ヶ崎領(常陸国河内郡龍ヶ崎村、現・茨城県龍ケ崎市)から50石を永代寄進されたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で、筑西市指定文化財。また、観音堂本尊の観音菩薩は、カヤ材の寄木造の立像で高さ約102cm、鎌倉時代の作とされ、大正11年に国宝指定、昭和25年に国指定重要文化財となっている。秘仏だが、年1回御開帳がある。延命観世音菩薩と称し、六臂あるのが特徴。
なお、当地には中世城館「伊佐城」があったとされ、茨城県指定史跡となっている。当寺院本堂付近が二の丸跡といわれ、「伊佐城址」石碑が建てられている。築城時期・築城者は不明だが、上記の中村常陸介朝宗が築城したとの説があり、当地(常陸国伊佐郡)は朝宗の長男・伊佐為宗が相続したので、その一族が居城としたのかもしれない。伝説では、天慶3年(940年)、下野押領使・藤原秀郷(通称:俵藤太)が平将門追討の際に「上館(元館)」・「中館」・「下館」の3館を築いたとされ、「中館」を伊佐氏が改修したものともいわれる。「伊佐城」は、南北朝時代、南朝方について戦ったが、北朝方の高師冬に攻められて興国4年(1343年)に落城し、以後廃城となったという。
天台宗 施無畏山延命院 觀音寺のHP
写真1:「茨城百景 中館観音と下館近郊」石碑
写真2:「國宝中舘觀世音」石碑。観音堂本尊の観音像がいわゆる旧国宝であったことを示すもの。境内に入るため石橋(「延命橋」という名がついている。)を渡る。この下は切通しで、かつて当地が中世城館であったときの堀跡といわれている。
写真3:「觀音寺」観音堂.。江戸時代中期頃の建築で、筑西市指定文化財。
写真4:同上、彫刻が素晴らしい。
写真5:「伊達行朝公供養塔」(覆屋)。中に石塔がある。伊達氏第7代・伊達行朝の供養塔という。筑西市指定文化財。
写真6:「延命水」。台地下、五行川畔に下りたところにある。木の根元から今も清水が湧いているが、水量は多くはなく、残念ながら飲用には適さないようである。
写真7:大門(山門)。「下館城」大手門の移築との伝承がある。
写真8:「下館藩主石川総管公墓所」。第9代下館藩主(最後の藩主で、初代下館藩知事。子爵)・石川総管の墓所。筑西市指定文化財。
写真9:本堂
写真10:同上
写真11:本堂横にある「伊佐城址」石碑。
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