日本坂峠(にほんざかとうげ)。
場所:静岡県焼津市花沢と静岡市駿河区小坂の境の峠。「花沢の里」駐車場から「高草山 法華寺」を経由して約2km歩く。「法華寺」までは舗装された道だが、「法華寺」からは狭い山道。
「法華寺」入口近くに石の道標があり(写真1)、「右 日本坂ふちう道 左 うつのや地蔵道」と刻されている。この道標は元禄15年(1702年)のものだが、「法華寺」前から左右に分かれて、右は日本坂峠を越えて府中(現・静岡市)へ、左は宇津ノ谷の「慶龍寺」(延命地蔵尊を祀る。)への道を示す。古代東海道は日本坂峠を越えるルートで、登坂角25~30度という狭い急坂だが、標高は302mとさしたる高さではなく、「法華寺」までにもかなり登って来ているので、「法華寺」からは案外すぐに越えられる。矢田勝氏(「駿河国中西部における古代東海道」)によれば、馬でも問題なく通過できたとされる。
峠の頂上に「穴地蔵」と呼ばれる石の地蔵が祀られている(写真3)。「穴地蔵」を覆う石組みを「人穴(ヒトアナ)」というが、これは横穴式石室の羨道らしい。「人穴」というのは、日本武尊がこの峠を越えるときに隠れた穴だ、という伝承による。また、「日本坂」という名も、日本武尊がこの峠を越えたことに因むという。なお、宇津ノ谷「慶龍寺」の延命地蔵尊は、元はこの峠にあったものを移したともいわれている。つまり、東海道のメインルートが日本坂峠越えから宇津ノ谷峠越えに変わっていく中で、旅人の安全を守る地蔵尊も移された、ということになるのだろう。
伝説によれば、「日本坂峠」の地蔵の前で、花沢の子供と小坂の子供が喧嘩をして、小坂の子が地蔵を坂から転がり落とした。すると、その晩にその子は死んでしまったので、慌てて地蔵を元に戻した、という。
(参考文献「焼津市史 民俗編」(平成19年7月))
写真1:「法華寺」入口近くにある道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/86/efdbbc3fe436f333f6eca6a0a4dfd2be.jpg)
写真2:峠の分かれ道の案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/68/e09b3dbdcabb900fb1e0e41fd5004eab.jpg)
写真3:穴地蔵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/b2/b46c6e6890c447b5edc56b1fa65439b1.jpg)
写真4:静岡市小坂側から日本坂峠方面を見る。
場所:静岡県焼津市花沢と静岡市駿河区小坂の境の峠。「花沢の里」駐車場から「高草山 法華寺」を経由して約2km歩く。「法華寺」までは舗装された道だが、「法華寺」からは狭い山道。
「法華寺」入口近くに石の道標があり(写真1)、「右 日本坂ふちう道 左 うつのや地蔵道」と刻されている。この道標は元禄15年(1702年)のものだが、「法華寺」前から左右に分かれて、右は日本坂峠を越えて府中(現・静岡市)へ、左は宇津ノ谷の「慶龍寺」(延命地蔵尊を祀る。)への道を示す。古代東海道は日本坂峠を越えるルートで、登坂角25~30度という狭い急坂だが、標高は302mとさしたる高さではなく、「法華寺」までにもかなり登って来ているので、「法華寺」からは案外すぐに越えられる。矢田勝氏(「駿河国中西部における古代東海道」)によれば、馬でも問題なく通過できたとされる。
峠の頂上に「穴地蔵」と呼ばれる石の地蔵が祀られている(写真3)。「穴地蔵」を覆う石組みを「人穴(ヒトアナ)」というが、これは横穴式石室の羨道らしい。「人穴」というのは、日本武尊がこの峠を越えるときに隠れた穴だ、という伝承による。また、「日本坂」という名も、日本武尊がこの峠を越えたことに因むという。なお、宇津ノ谷「慶龍寺」の延命地蔵尊は、元はこの峠にあったものを移したともいわれている。つまり、東海道のメインルートが日本坂峠越えから宇津ノ谷峠越えに変わっていく中で、旅人の安全を守る地蔵尊も移された、ということになるのだろう。
伝説によれば、「日本坂峠」の地蔵の前で、花沢の子供と小坂の子供が喧嘩をして、小坂の子が地蔵を坂から転がり落とした。すると、その晩にその子は死んでしまったので、慌てて地蔵を元に戻した、という。
(参考文献「焼津市史 民俗編」(平成19年7月))
写真1:「法華寺」入口近くにある道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/86/efdbbc3fe436f333f6eca6a0a4dfd2be.jpg)
写真2:峠の分かれ道の案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/68/e09b3dbdcabb900fb1e0e41fd5004eab.jpg)
写真3:穴地蔵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/b2/b46c6e6890c447b5edc56b1fa65439b1.jpg)
写真4:静岡市小坂側から日本坂峠方面を見る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/48/81465874d99f10eb7a8d14c2ae3167e4.jpg)
コメントありがとうございます。訳あって、なかなか再訪は難しいのですが、確かこの記事を書いたときに、焼津市のHPでみたハイキングコースに沿って実際に峠越えをしました。記事にあるように、急で狭い山道だったと思います。馬が越えられるかどうかはわかりません。ただ、道標にあるように、府中(駿府)に行く道として使われていたことは明らかと思います。古代官道は軍事道路で、歩兵が通れることが第一だったかもしれません。
古代で道路を直線的に造ることを重視し、現実に道があれば、それを第一に考えるのかなぁ、と思います。それでも、キツイ道だったので、宇津ノ谷ルートが開かれたのだろうと思います(あるいは、馬の場合の迂回路として最初からあったのか?)。
より良いルートが見つかりましたら、是非ご教示ください。
山陽道の例でいきますと、丘くらいであれば切通しを造ってでも直線にしていることがありますが、険しい山があると、どうしていたのか実はよくわかりません。結局は発掘調査によるしかないのでしょうが、あるいは、時代的な変遷や、本道、迂回路などもあったのかもしれません。ひょっとすると、どこかで海路を採ったかもしれません。今後、発掘調査などでびっくりするような結果が出るかもしれませんね。
ご丁寧な御教示ありがとうございます。
海路の方は、まあ、メインでは無いと思います。輸送力は大きくても、波が荒れれば使えなくなるので、極力、海路のみにはしなかったと思います。古代官道のルートは唯一と思われていますが、複数あったのかもしれません。それと、田村麻呂将軍が駿河国以西から10万人の兵を率いていたかは再検討の余地があると思います。
兵士10万人の件はインターネットからの、にわか情報ですので責任の持てる数字ではないのですが話し半分としても昔としてはカナリの数ではないかなあと思います。
広範囲の歴史的なブログの内容で楽しく読まさせていただいています、申し遅れましたがありがとうございます。 また何か関連情報等ありましたらお届けさせて下さい。
兵士10万人の件はインターネットからの、にわか情報ですので責任の持てる数字ではないのですが話し半分としても昔としてはカナリの数ではないかなあと思います。
広範囲の歴史的なブログの内容で楽しく読まさせていただいています、申し遅れましたがありがとうございます。 また何か関連情報等ありましたらお届けさせて下さい。
藤枝市史上巻(昭和46年11月3日発行)173頁に古代東海道に付いて→〜大崩の浜辺伝いに〜大和田の浦に出て〜手越の浦を経て横田駅に通じていた。又一つは小川駅から坂本を経て日本坂を超え小坂村に下り大和田浦を過ぎて横田駅に通じたとも考えられる。 以上です
蛇足ですが、田村麻呂将軍自身は身長180cm近い大柄な偉丈夫だったと言われていますが、戦闘よりも降伏を促すといった、知略家の性格が強かったようです。
また、兵士10万人の件ですが、征夷の兵士は基本的に東国、即ち、駿河国以東の関東地方(坂東)から徴用されたので、駿河国(以西)からだけで10万人集めたわけではないと思います。主力は武蔵、上野、下野、常陸、下総といったところだと思います。
それにしても、古代官道探しは結構ハマりますね。これからもよろしくお願いいたします。