寿亀山 天樹院 弘経寺(じゅきざん てんじゅいん ぐぎょうじ)。通称:飯沼弘経寺。
場所:茨城県常総市豊岡町甲1。国道354号線と茨城県道134号線(鴻野山豊岡線)の「西中入口」交差点から県道を北へ約2.2km、「弘経寺→」という案内標識がある交差点を右折(東へ)、約170m。駐車場有り。
寺伝によれば、応永21年(1414年)、現・東京都港区芝の浄土宗大本山「増上寺」を開山した聖聡上人(浄土宗鎮西派第8祖)の弟子・嘆誉良肇上人によって創建された。室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄えたが、天正5年(1577年)に下妻城主・多賀谷氏と小田原北条氏の合戦に巻き込まれ、多賀谷氏が当寺院に陣を張ったために戦火で堂宇を焼失。第9世・壇誉存把上人は下妻~結城に逃れ、時の結城城主・結城秀康(徳川家康の次男だが、豊臣秀吉の養子となり、その後、結城家の婿養子に入った。)の帰依を得て、現・茨城県結城市に「弘経寺」を再建した(現・「寿亀山 松寿院 弘経寺」、通称:結城弘経寺)。その後、第10世・照誉了学上人が当寺院を再興し、徳川幕府からの厚遇、特に徳川家康の孫・千姫(落飾して天樹院と号する。)の帰依が篤く、当寺院を菩提所として再建に多大な寄進をした。このようなことから、江戸時代には浄土宗の関東十八檀林の1つとなり、その中でも上位の紫衣壇林とされた。現在は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
さて、千姫(徳川第2代将軍・秀忠の長女、第3代・家光の姉)の芳しからぬ「吉田御殿」伝説(史実ではない。)はともかくとして、当寺院にまつわる伝説・伝承は多い。まず、開山の嘆誉良肇上人であるが、下総国猿島郡富田(現・茨城県坂東市)に生まれ、応永21年に当寺院を創建するのだが(因みに、同年、現・茨城県取手市にも現・「大鹿山 清浄院 弘経寺」(通称:取手弘経寺)を創建している。)、当地は四方を谷に囲まれて亀の甲羅のような島状の土地だった。このとき、飯沼の主の大亀が現れて「この土地は私のものである。すぐに立ち去ってほしい。」と告げた。上人は大亀に頼んで、この土地を10年間借りることにしたが、10年後、大亀が再び現れた際、借用書の「十」の文字に一点を加えて「千」としたため、大亀は何も言わず立ち去った。上人は大亀に感謝し、山号を「寿亀山」としたという。次に、第2世・了暁上人の頃、当寺院に宗運という僧がいた。宗運は才学に優れ、歌舞も巧みだった。文明10年(1478年)、開山上人の法要の折、宗運は歌舞を披露して好評を博したが、疲れて寝てしまい、貉(むじな。関東ではタヌキ、アナグマの総称)の正体を現した。やむなく寺を去ることになったが、最後に幻術により阿弥陀来迎を見せようと言った。ただし、あくまでも幻術であるから、くれぐれも「南無阿弥陀仏」などと唱えないでほしいと話したが、阿弥陀来迎の情景が現れると、人々は思わず名号を唱えたために幻術が解けてしまった。その時、杉の大木の上にいた宗運は落下し、小貝川に身を投げて死んだ。その死骸が流れ着いたのが現・茨城県つくばみらい市狸渕(むじなぶち)で、同所にある当寺院の末寺「寿永山 浄円寺」に葬られた。当寺院境内の大杉は「来迎杉」と呼ばれるようになり、その下に「宗運堂」が建立されて、宗運が作ったという面などが納められている。第三は、歌舞伎などで有名な「累ヶ淵」の怪談物語で、佑天上人が累の霊を解脱させて解決するのだが、これは佑天が当寺院に居た寛文12年(1672年)に発生した実際の事件が元になっている。ただし、(真言宗や日蓮宗ならばともかく)浄土宗では、こうしたエクソシスト的な行いは忌避され、佑天はいったん浄土教団から離れざるを得なくなった。しかし、こうした霊落としや女性救済の実績が広く知られ、ついには将軍家の大奥の支持を得て、元禄13年(1700年)に当寺院の住職に任命され、正徳元年(1711年)には「増上寺」第36世法主・大僧正に任じられることになる。なお、当寺院の東、約650m(直線距離)のところにある「法蔵寺」には「累の墓」があり、常総市の指定文化財となっている。
羽生山 住生院 法蔵寺(はにゅうさん おうじょういん ほうぞうじ)。
場所;茨城県常総市羽生町724。「弘経寺」前から南東へ約500mのところで左折(北東へ)、約250m。駐車場有り。
文禄元年(1592年)、西誉哲山上人が開基した浄土宗寺院。累一族の墓のほか、累の木像や祐天上人が用いた怨霊解脱の数珠などが保存されているとのこと。
なお、宗運の伝説については、実は色々と紆余曲折があるようで、興味がある方は中村禎里著「狐付きと狐落とし」が参考になります。この本には、佑天上人についても書かれています。
弘経寺のHP
写真1:「弘経寺」境内入口、寺号標(「大本山増上寺別院 寿亀山 弘経寺」)
写真2:同上、本堂。
写真3:同上、向かって左から、薬師堂、開山堂、経蔵。
写真4:手水鉢は亀の形になっている。
写真5:同上、「来迎杉」と「宗運堂」
写真6:「宗運堂」
写真7:同上、「天樹院殿御廟」入口
写真8:同上(千姫の墓)。千姫は死後、徳川家の菩提寺である「伝通院」(現・東京都文京区小石川)に葬られ、当寺院には遺髪が納められたとされてきたが、平成9年の保存修理の際に遺骨が発見され、分骨されたことがわかったという。
写真9:「法蔵寺」本堂。鬼怒川右岸(西岸)約350mのところにある。
写真10:同上、「累の墓」(常総市指定文化財(史跡))。
写真11:「寿永山 浄円寺」(場所:茨城県つくばみらい市狸渕52。小貝川に架かる稲豊橋東詰の南、約230m。駐車場有り。)。なお、つくばみらい市には同じ浄土宗「浄円寺」がもう1つあるので注意(「豊体山 無量院 浄円寺」、つくばみらい市豊体)。
写真12:同上、宗運の供養碑。地蔵菩薩の線刻の下に「為延誉宗運大徳」などと刻されているとのこと。なお、「檀林飯沼弘経寺志」(1821年)によれば、宗運は人間で、「弘経寺」に18年間滞在していた後、小貝川に身投げして亡くなったとされる(身投げの理由は不明。)。
場所:茨城県常総市豊岡町甲1。国道354号線と茨城県道134号線(鴻野山豊岡線)の「西中入口」交差点から県道を北へ約2.2km、「弘経寺→」という案内標識がある交差点を右折(東へ)、約170m。駐車場有り。
寺伝によれば、応永21年(1414年)、現・東京都港区芝の浄土宗大本山「増上寺」を開山した聖聡上人(浄土宗鎮西派第8祖)の弟子・嘆誉良肇上人によって創建された。室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄えたが、天正5年(1577年)に下妻城主・多賀谷氏と小田原北条氏の合戦に巻き込まれ、多賀谷氏が当寺院に陣を張ったために戦火で堂宇を焼失。第9世・壇誉存把上人は下妻~結城に逃れ、時の結城城主・結城秀康(徳川家康の次男だが、豊臣秀吉の養子となり、その後、結城家の婿養子に入った。)の帰依を得て、現・茨城県結城市に「弘経寺」を再建した(現・「寿亀山 松寿院 弘経寺」、通称:結城弘経寺)。その後、第10世・照誉了学上人が当寺院を再興し、徳川幕府からの厚遇、特に徳川家康の孫・千姫(落飾して天樹院と号する。)の帰依が篤く、当寺院を菩提所として再建に多大な寄進をした。このようなことから、江戸時代には浄土宗の関東十八檀林の1つとなり、その中でも上位の紫衣壇林とされた。現在は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
さて、千姫(徳川第2代将軍・秀忠の長女、第3代・家光の姉)の芳しからぬ「吉田御殿」伝説(史実ではない。)はともかくとして、当寺院にまつわる伝説・伝承は多い。まず、開山の嘆誉良肇上人であるが、下総国猿島郡富田(現・茨城県坂東市)に生まれ、応永21年に当寺院を創建するのだが(因みに、同年、現・茨城県取手市にも現・「大鹿山 清浄院 弘経寺」(通称:取手弘経寺)を創建している。)、当地は四方を谷に囲まれて亀の甲羅のような島状の土地だった。このとき、飯沼の主の大亀が現れて「この土地は私のものである。すぐに立ち去ってほしい。」と告げた。上人は大亀に頼んで、この土地を10年間借りることにしたが、10年後、大亀が再び現れた際、借用書の「十」の文字に一点を加えて「千」としたため、大亀は何も言わず立ち去った。上人は大亀に感謝し、山号を「寿亀山」としたという。次に、第2世・了暁上人の頃、当寺院に宗運という僧がいた。宗運は才学に優れ、歌舞も巧みだった。文明10年(1478年)、開山上人の法要の折、宗運は歌舞を披露して好評を博したが、疲れて寝てしまい、貉(むじな。関東ではタヌキ、アナグマの総称)の正体を現した。やむなく寺を去ることになったが、最後に幻術により阿弥陀来迎を見せようと言った。ただし、あくまでも幻術であるから、くれぐれも「南無阿弥陀仏」などと唱えないでほしいと話したが、阿弥陀来迎の情景が現れると、人々は思わず名号を唱えたために幻術が解けてしまった。その時、杉の大木の上にいた宗運は落下し、小貝川に身を投げて死んだ。その死骸が流れ着いたのが現・茨城県つくばみらい市狸渕(むじなぶち)で、同所にある当寺院の末寺「寿永山 浄円寺」に葬られた。当寺院境内の大杉は「来迎杉」と呼ばれるようになり、その下に「宗運堂」が建立されて、宗運が作ったという面などが納められている。第三は、歌舞伎などで有名な「累ヶ淵」の怪談物語で、佑天上人が累の霊を解脱させて解決するのだが、これは佑天が当寺院に居た寛文12年(1672年)に発生した実際の事件が元になっている。ただし、(真言宗や日蓮宗ならばともかく)浄土宗では、こうしたエクソシスト的な行いは忌避され、佑天はいったん浄土教団から離れざるを得なくなった。しかし、こうした霊落としや女性救済の実績が広く知られ、ついには将軍家の大奥の支持を得て、元禄13年(1700年)に当寺院の住職に任命され、正徳元年(1711年)には「増上寺」第36世法主・大僧正に任じられることになる。なお、当寺院の東、約650m(直線距離)のところにある「法蔵寺」には「累の墓」があり、常総市の指定文化財となっている。
羽生山 住生院 法蔵寺(はにゅうさん おうじょういん ほうぞうじ)。
場所;茨城県常総市羽生町724。「弘経寺」前から南東へ約500mのところで左折(北東へ)、約250m。駐車場有り。
文禄元年(1592年)、西誉哲山上人が開基した浄土宗寺院。累一族の墓のほか、累の木像や祐天上人が用いた怨霊解脱の数珠などが保存されているとのこと。
なお、宗運の伝説については、実は色々と紆余曲折があるようで、興味がある方は中村禎里著「狐付きと狐落とし」が参考になります。この本には、佑天上人についても書かれています。
弘経寺のHP
写真1:「弘経寺」境内入口、寺号標(「大本山増上寺別院 寿亀山 弘経寺」)
写真2:同上、本堂。
写真3:同上、向かって左から、薬師堂、開山堂、経蔵。
写真4:手水鉢は亀の形になっている。
写真5:同上、「来迎杉」と「宗運堂」
写真6:「宗運堂」
写真7:同上、「天樹院殿御廟」入口
写真8:同上(千姫の墓)。千姫は死後、徳川家の菩提寺である「伝通院」(現・東京都文京区小石川)に葬られ、当寺院には遺髪が納められたとされてきたが、平成9年の保存修理の際に遺骨が発見され、分骨されたことがわかったという。
写真9:「法蔵寺」本堂。鬼怒川右岸(西岸)約350mのところにある。
写真10:同上、「累の墓」(常総市指定文化財(史跡))。
写真11:「寿永山 浄円寺」(場所:茨城県つくばみらい市狸渕52。小貝川に架かる稲豊橋東詰の南、約230m。駐車場有り。)。なお、つくばみらい市には同じ浄土宗「浄円寺」がもう1つあるので注意(「豊体山 無量院 浄円寺」、つくばみらい市豊体)。
写真12:同上、宗運の供養碑。地蔵菩薩の線刻の下に「為延誉宗運大徳」などと刻されているとのこと。なお、「檀林飯沼弘経寺志」(1821年)によれば、宗運は人間で、「弘経寺」に18年間滞在していた後、小貝川に身投げして亡くなったとされる(身投げの理由は不明。)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます