神が宿るところ

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志太郡衙跡

2011-04-12 23:10:12 | 史跡・文化財
志太郡衙跡(しだぐんがあと)。
場所:静岡県藤枝市南駿河台1-12(「志太郡衙資料館」の住所)。青島北中学校の北側にあり、JR東海道本線「藤枝」駅の北西、約1.6km。駐車場は、青島北中学校の東側にある「青島公民館」の駐車場を利用。資料館を含め、見学無料。
国道1号線(近世東海道)沿いの藤枝市郡(こおり)は、その地名から、江戸時代から古代の郡家(郡衙)所在地と推定されてきた。国道1号線「大手」交差点を中心に東西500m、南北400mの範囲で発掘調査が行われ、掘立柱建物跡のほか、貢進木簡や「益厨」の墨書土器が出土した(「郡遺跡」)。このため、この辺りが「益津郡家」所在地だったことが確認された。因みに、「大手」という地名は、今川氏により天文6年(1537年)に築かれた「田中城」(珍しい円形の縄張りを持つ。)の正面入口(大手)に当たることによる。ここに「田中城」が築かれたのも、古代以来の政治的中心があったからかもしれない。
一方、「志太郡家」跡とされる「御子ヶ谷遺跡」は、地形上の問題から全く存在が予想されておらず、昭和52年に行われた日本住宅公団(当時)の宅地造成工事で発見された。地形上の問題というのは、この場所が、北側を塩出谷川、南側を低湿地、東西を丘陵によって囲まれた地形で、郡家所在地としてはかなり狭い南北70m、東西80mの範囲となっていることである。この遺跡からは30棟の掘立柱建物跡のほか、木簡、「志太厨」・「大領」などと記された土器などが大量に出土したことから「志太郡家」と認められた。昭和55年10月には国指定史跡となり、平成2~4年にかけて郡家の諸施設の建物が復元された。なお、「青島公民館」周辺にあった「秋合遺跡」も郡家施設の一部であったらしく、地形的な制限から、施設が分散して建てられていたようだ。しかも、奈良・「正倉院」所蔵の駿河国正税帳には、郡家付属の正倉(税として徴収した稲殻を収納する倉)が24棟あると記されているが、その遺跡はまだ発見されていない。
それにしても、志太郡家(御子ヶ谷遺跡)と益津郡家(郡遺跡)は、瀬戸川を挟んで約3kmしか離れていない。この2つの郡家の郡司は、同じ一族か、かなり親しい関係にあったとみられている。


藤枝市のHPから(志太郡衙資料館)

文化遺産オンラインのHPから(志太郡衙跡)


写真1:「志太郡衙跡」(御子ヶ谷遺跡)。東側の丘から見下ろす。右手に見えるのが塩出谷川で、他の三方を丘で囲まれている。


写真2:建物の骨格を復元。


写真3:建物の柱の位置を示す。奥の丘が写真1の撮影場所。
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2 コメント

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誤字修正希望 (NPO法人げんきむら)
2012-02-17 18:32:40
先ほどの投稿に誤字がありました。
修正を希望します。
「排泄」を「開設」に改めてください。
返信する
転載を許可してください (NPO法人げんきむら)
2012-02-17 18:26:19
当方、障害者の支援を行っている団体です。
この4月に青島北公民館東隣りに障害のある仲間の働く場所として2号館を排泄します。そこで志太郡衙をモチーフにしたTシャツや一筆箋などのグッズを製作し、2号館の展示場で販売する予定です。
このブログの記事がこの近隣の古代の状況について分かりやすく書かれているので、当所へ展示を見に来る市民の皆さんへの説明や、グッズにつける案内として転載したものを使わせていただければ幸いです。
よろしくご検討ください。
      げんきむら 副理事長 鈴木裕子
E-mailはgenkimura@alpha.ocn.ne.jp
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