小幡北山埴輪製作遺跡(おばたきたやまはにわせいさくいせき)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町小幡2735外。国道6号線「小幡」交差点から北東へ約1km。駐車場、トイレ有り。国道の交通量が多く、駐車場への出入りに注意。
「小幡北山埴輪製作遺跡」は、これまでに発見された中では我が国最大の古墳時代の埴輪製作遺跡で、6世紀中頃~7世紀前半頃の遺跡とみられている。涸沼川の右岸(南岸)、標高22.5~27mの台地上にあり、涸沼川の支流が開析した浸蝕谷の最奥部に位置して、東西に分岐した幅5~10メートルの小支谷沿いに展開している。古くから俗に「カベット山」(壁土山)と称され、良質の粘土のとれる場所として知られていたが、昭和28年、入植者の開墾作業中に人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが多量に出土し、埴輪製作遺跡として知られるようになった。しかし、その後は本格的な調査が行われないまま耕作地化が進んでいたが、昭和62年、西側支谷から埴輪製作の窯跡が発見され、遺跡が予想以上に広範囲に及ぶことが明らかになった。このため、急遽同年から翌年にかけて3次にわたる調査が実施され、埴輪窯59基、工房跡8棟、粘土採掘坑2ヵ所などが発見された。また、円筒埴輪、朝顔形埴輪、武人などの人物埴輪、土師器の坏、高坏、鉢、甕なども出土した。窯跡は、幅の狭い谷に向かった傾斜地を利用して造られ、2~7m間隔で整然と並んでいた。また、竪穴式住居跡らしい遺構も発見されたが、竈などが設置されておらず、工房跡だったと推定されている。当遺跡で製作された埴輪は、周辺の古墳のほか、約15kmも離れた霞ヶ浦北岸の大型古墳にも供給されていたことが判明しているという。平成4年、国史跡に指定され、現在は「小幡北山埴輪公園」として整備されている。
文化遺産オンラインのHPから
写真1:「小幡北山埴輪製作遺跡」入口。国指定史跡の標柱がある。
写真2:入口から入って直ぐの「復元前方後円墳」。埴輪の並べ方などの参考のため造られたとのこと。
写真3:少し下っていったところにある「粘土採掘坑」跡
写真4:「復元はにわ窯」
写真5:「埴輪窯跡」。植栽でうまく窯跡を表現している。
場所:茨城県東茨城郡茨城町小幡2735外。国道6号線「小幡」交差点から北東へ約1km。駐車場、トイレ有り。国道の交通量が多く、駐車場への出入りに注意。
「小幡北山埴輪製作遺跡」は、これまでに発見された中では我が国最大の古墳時代の埴輪製作遺跡で、6世紀中頃~7世紀前半頃の遺跡とみられている。涸沼川の右岸(南岸)、標高22.5~27mの台地上にあり、涸沼川の支流が開析した浸蝕谷の最奥部に位置して、東西に分岐した幅5~10メートルの小支谷沿いに展開している。古くから俗に「カベット山」(壁土山)と称され、良質の粘土のとれる場所として知られていたが、昭和28年、入植者の開墾作業中に人物埴輪、円筒埴輪、馬の埴輪などが多量に出土し、埴輪製作遺跡として知られるようになった。しかし、その後は本格的な調査が行われないまま耕作地化が進んでいたが、昭和62年、西側支谷から埴輪製作の窯跡が発見され、遺跡が予想以上に広範囲に及ぶことが明らかになった。このため、急遽同年から翌年にかけて3次にわたる調査が実施され、埴輪窯59基、工房跡8棟、粘土採掘坑2ヵ所などが発見された。また、円筒埴輪、朝顔形埴輪、武人などの人物埴輪、土師器の坏、高坏、鉢、甕なども出土した。窯跡は、幅の狭い谷に向かった傾斜地を利用して造られ、2~7m間隔で整然と並んでいた。また、竪穴式住居跡らしい遺構も発見されたが、竈などが設置されておらず、工房跡だったと推定されている。当遺跡で製作された埴輪は、周辺の古墳のほか、約15kmも離れた霞ヶ浦北岸の大型古墳にも供給されていたことが判明しているという。平成4年、国史跡に指定され、現在は「小幡北山埴輪公園」として整備されている。
文化遺産オンラインのHPから
写真1:「小幡北山埴輪製作遺跡」入口。国指定史跡の標柱がある。
写真2:入口から入って直ぐの「復元前方後円墳」。埴輪の並べ方などの参考のため造られたとのこと。
写真3:少し下っていったところにある「粘土採掘坑」跡
写真4:「復元はにわ窯」
写真5:「埴輪窯跡」。植栽でうまく窯跡を表現している。
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