神が宿るところ

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北山稲荷大明神(茨城県坂東市)

2021-07-17 23:56:08 | 神社
北山稲荷大明神(きたやまいなりだいみょうじん)。別名:北山稲荷神社、平将門公戦歿之地。
場所:茨城県坂東市辺田1402-1。国道354号線と茨城県道20号線(結城坂東線)の「辺田」交差点から県道を北西へ約1.3km進み、「岩井第二小入口」交差点を右折(北東へ)、交差点角のコンビニ「ファミリーマート坂東辺田店」裏の道路に入り(左折・北西へ)、約200m。駐車スペースあり。
社伝等によれば、明応7年(1498年)に妙海禅尼が将門の菩提を弔うため、平将門の終焉の地である当地に小祠を建て、「御魂明神」と称した。妙海禅尼は文亀3年(1503年)に亡くなるが、村人は「御魂明神」を「稲荷神社」として敬い続け、明和3年(1767年)には正一位の格位を受けたとされる。現在の祭神は不明だが、稲荷神社だと一般的には宇迦之御魂神 (または、倉稲魂命。いずれも「ウカノミタマ」)なので、将門を祀る神社が稲荷神社になった理由もその辺りにありそうだ。
さて、 軍記物語「将門記」によれば、将門の終焉の地は「辛島郡(=猿島郡)之北山」付近とされる。この「北山」がどこかについては諸説あり、通説は将門の娘の如蔵尼が創建したという「國王神社」付近(現・坂東市岩井。2012年10月6日記事)又は将門の本拠地のあった「島広山・石井営所跡」(同、2012年10月13日記事)付近というのが有力説である。ただし、「國王神社」あるいは「島広山・岩井営所跡」から、当地は南に約2kmのところであり、遠く離れているわけではない。当地が将門の終焉の地とされるのは、「北山稲荷大明神」の社伝によるほか、昭和50年に当地から1枚の板碑が発掘されたことも理由となっている。それは、長元4年(1031年)に源頼信が将門の鎮魂を祈って建てたというもので、将門の命日を「天慶三庚子年 二月十四日」と刻していたという。何故、源頼信が板碑を建てたかというと、「平忠常の乱」(1028~1031年)鎮圧の記念のためとされる。平良文(将門の叔父)の孫である平忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な領地を有し、国司の命に服さず、納税もしなかった。長元元年(1028年)には安房守を殺害し、上総国の国衙を占領するなど、反乱を起こした。これに対して、朝廷はなかなか制圧できずにいたが、追討使に任じられた甲斐守・源頼信が上総国に入ろうとした長元4年(1031年)、長い間の乱で疲弊していた忠常が戦わずして降伏した。こうして、労せず乱を治めた頼信が感謝の意も込めて板碑を建立したということになっている。
さて、板碑とは、正式には「板石卒塔婆」といい、石板による仏教式の供養塔を指す。板状に加工しやすい石が現・埼玉県の秩父地方(武蔵型)や現・茨城県の筑波山周辺(下総型)で産出したことなどから、関東地方に多く見られる。また、鎌倉武士の浄土信仰が関連しているともいわれている。そして、現存する最古の板碑は、現・埼玉県熊谷市の「江南文化財センター」にある嘉禄3年(1227年) 銘の「阿弥陀三尊画像板石塔婆」とされている。一般に、鎌倉時代中期頃から造られ始め、南北朝時代に全盛期を迎え、室町時代~安土桃山時代のものもあるが、江戸時代には造られなくなったという。ということで、当地に、出土した板碑のレプリカとされるものが建てられているが、それをみると、上部に梵字の種字(おそらく阿弥陀如来)が刻され、その下に「将門禅門位」とある。これは典型的な板碑の形で、「禅門」とは、在家のまま仏門に入った男子のこと(同様に、女子は「禅尼」。)をいう。こうした形式は、早くても鎌倉時代後期以降と思われる。また、1031年ではまだ将門は逆賊との認識の方が強かったと思われ、朝廷側の頼信が供養塔を建てたというのはどうだろうか。このようなことから、当地が将門の終焉の地であるとの確証はないのだが、後世、それを信じた人々がいたということなのだろう。
なお、当地には将門の怨霊という伝承はないようだが、最近も、霊能者が「ここが将門の終焉の地だ」と霊視したという話があって、大手電機販売チェーン店やコンビニ、自動車ディーラーなどが立ち並ぶ県道のすぐ裏が藪になっていて昼なお暗いという何となく不気味な感じがすることから、知る人ぞ知るミステリー・スポット、あるいは、心霊スポットとなっているようである。


写真1:「北山稲荷大明神」入口


写真2:鳥居と社号標(「正一位北山稲荷大明神」)


写真3:倒れた燈籠の奥に社殿。周囲から藪が迫ってくるような感じ。


写真4:「平将門公戦歿之地 辺田北山」石碑


写真5:「鎮魂 平将門公之碑」と、当地で出土したという板碑のレプリカ?


写真6:社殿


写真7:社殿の後ろにある「板碑出土の処」石碑

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