神が宿るところ

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国分山 国分寺(下総国分寺跡)

2013-02-09 23:07:59 | 寺院
国分山 国分寺(こくぶさん こくぶんじ)。下総国分寺跡(しもふさこくぶんじあと)。
場所:千葉県市川市国分3-20-1。国分小学校の西、約400m。狭い道路を台地上に上がっていくが、見通しも悪く、わかりにくい。駐車場有り。
「下総国分寺」は、天平13年(741年)の聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺の1つで、下総国では古くから市川市国分台地上にある「国分山 金光明寺」がその法灯を伝えるとされ、現在は改称して真言宗豊山派「国分山 国分寺(こくぶさん こくぶんじ)」となっている。
昭和40~41年の発掘調査で、現在の本堂下に金堂跡とされる31.5m×19mの基壇、金堂基壇の中心から北西40m地点で26m×南北18mの講堂跡とされる基壇、金堂基壇の中心から西39m地点で18m×18mの塔跡とされる基壇が発見され、法隆寺式伽藍配置であったと推定されている。ただし、それぞれの方位が揃っておらず、いずれも南北軸から少しずれて建てられていたという。その理由は謎で、一応、まず塔が建てられ、その後に(やや時間を置いて)金堂・講堂が建てられたためと説明されている(塔はやや西に傾き、金堂・講堂は東に傾いている。因みに、「下総国分尼寺」の金堂・講堂跡も東に傾いている)。古代では、方位は重要なもので、特に国庁や有力な寺社は大抵南向きを守っている。何か地形的な問題でもあったのかもしれない。
こうして、創建時期等についてやや疑問はあるが、「下総国分寺」は遅くとも8世紀後半には完成していただろうとされる。9世紀半ばから後半には各地で俘囚(奥羽から連行されてきた蝦夷の捕虜)が反乱を起こし、下総国では貞観17年(875年)に俘囚による官寺焼打ち事件が起きる。この「官寺」については、異説もあるが、「下総国分寺」のことであろうとされている。それ以外にも焼失などがあったようだが、中世にも国分寺領があった記録があり、寺院として存続はしていたらしい(ただし、12世紀には講堂付近が墓地になっていたとされる。)。延元年間(1336~1339年)、文明13年(1481年)に諸堂炎上の記録があるというが、その後の状況は不明。元の「国分山 金光明寺」は近世の再興ともいう。


市川市のHPから(下総国分寺跡 附 北下瓦窯跡)


写真1:千葉商科大学東側から東に下る通称「持国坂」途中にある道標(文化5年(1808年)銘)。正面に「国分寺江 五町」(5町は約545m)とあり、左側面が「真間山」、右側面が「総寧寺六所神社」となっているので、あるいは元は坂上にあったのかもしれない。(場所:市川市真間5丁目)


写真2:「国分寺」山門。かつての南大門を再現したものらしい。


写真3:同上、本堂。本尊:薬師如来。


写真4:同上、境内に塔の礎石という大石が並べられている。


写真5:同上、本堂の裏手にある墓地区域の中に「講堂址」の石碑が建てられている。


写真6:「国分寺」の北、約100mのところにある「史跡 下総国分寺跡」の石碑。現状はは単なる原っぱだが(「ドッグランではありません」という注意書きがある。)、下総国分寺関連施設(僧坊?)の跡地らしい。

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