鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字鳥海山1(「鳥海山」山頂)。登山ルートはいくつもあるが(鳥海国定公園観光開発協議会のHPでは9つの登山口が紹介されている。)、最も初心者向けとされるのが「象潟口(鉾立)ルート」。国道7号線から「鳥海ブルーライン」に入り、鉾立駐車場(5合目:1,150m)から登山道を約4時間半歩く。
社伝によれば、景行天皇の御世(71~130年?)に出羽国に「神」が出現し、欽明天皇25年(564年)に「鳥海山」山上に鎮座したとする。祭神は「大物忌大神」であるが、この神は「記紀」には登場しない。「大物忌」というのは清浄を保つことを意味するとし、通説では倉稲魂命(ウカノミタマ)または豊受姫命(トヨウケヒメ)と同一神とする。古くから(ヤマト政権の支配が及ぶ前から)五穀豊穣の神として信仰され、後に北辺の神として国家守護の神となったらしい。「鳥海山」(2,236m)は現在も活火山とされているが、6世紀後半から8世紀初めにかけて盛んに噴火しており、それを鎮めるために祀られたともいう。噴火は戦乱の予告とされたほか、「続日本後紀」によれば石鏃を降らせたり、海賊に襲われた遣唐使船を助けたり(その根拠が不明だが)といった神威を現したとされ、噴火のたびに神階が上がり、「本朝世紀」天慶2年(939年)条の時点で既に正二位勳三等という極めて高い神階を受けていた。
ところで、「鳥海山」という山名が何時頃から使われていたか、また、山名の由来も、よくわかっていないらしい。古代には専ら「大物忌神」と呼ばれており、鳥海山自体が信仰の対象であったことがわかる。「日本三大実録」貞観13年(871年)の条に「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到」とあって、一般に、このときには既に鳥海山山頂に神社があったとされる。ただし、原文には句読点は無いから、「大物忌神社は飽海郡の山上に在り」ではなく、「大物忌神社は飽海郡に在り、山上は巌石が壁立し、・・・」と読むことも可能。個人的には、後者の読み方のほうが良いように思う。小祠くらいはあったかもしれないが、冬には雪で道が閉ざされ、参拝などできない(現在でも10月下旬~4月下旬まで冬季閉鎖)。よって、常設の神社は山麓にあったと思う。そもそも山自体が信仰の対象なのだから、敢えて山上に神社を建てる必要はないのではないだろうか。
「延喜式」神名帳では、出羽国9座(9社)のうち、「月山神社」と並び「名神大」社とされている。また、出羽国では最も神階の高い神社で、出羽国一宮とされることに異論はない。ただし、中世以降は神仏混淆し、特に修験が隆盛して「鳥海山大権現」と称され、「薬師如来」が本地仏とされた。近世には、山麓(登山口)での祭祀に宗派の争いなどが絡んで紛争が生じ、山頂の当神社が出羽国一宮と定められた経緯がある(別項で書く予定)。現在では、「鳥海山」山頂の「御本社」と、山麓の「吹浦」・「蕨岡」の2つの社を「口之宮」として、3社一体で「鳥海山大物忌神社」となっている。
遊佐鳥海観光協会のHPから(鳥海山大物忌神社)
鳥海国定公園観光開発協議会のHPから(鳥海山登山ガイド)
玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社)
写真1:「鳥海山」7合目の「鳥ノ海」(鳥海湖)。「鳥海山」噴火によってできたカルデラ湖で、湖面標高1,575m、満水時面積0.7ha、最大水深3m。「鳥海山」の名の由来になったともされる。
写真2:「鳥ノ海」の少し上にある「御浜神社」(御浜小屋)
写真3:山頂付近の「鳥海山大物忌神社」鳥居。登り口の駐車場では晴れていたのだが、登山中は殆ど霧。
写真4:「鳥海山大物忌神社」社号標
写真5:同上、社殿。背後に最高峰「新山」があり、登山者は神社前にザックをデポして登る。
写真6:「鳥海山大物忌神社 中の宮」。「国民宿舎 大平山荘」(鳥海ブルーライン四合目)に隣接。昭和49年に噴煙が上がったため全山入山禁止となり、「鳥海山」中腹に造営された「中の宮」に一時遷座したという。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字鳥海山1(「鳥海山」山頂)。登山ルートはいくつもあるが(鳥海国定公園観光開発協議会のHPでは9つの登山口が紹介されている。)、最も初心者向けとされるのが「象潟口(鉾立)ルート」。国道7号線から「鳥海ブルーライン」に入り、鉾立駐車場(5合目:1,150m)から登山道を約4時間半歩く。
社伝によれば、景行天皇の御世(71~130年?)に出羽国に「神」が出現し、欽明天皇25年(564年)に「鳥海山」山上に鎮座したとする。祭神は「大物忌大神」であるが、この神は「記紀」には登場しない。「大物忌」というのは清浄を保つことを意味するとし、通説では倉稲魂命(ウカノミタマ)または豊受姫命(トヨウケヒメ)と同一神とする。古くから(ヤマト政権の支配が及ぶ前から)五穀豊穣の神として信仰され、後に北辺の神として国家守護の神となったらしい。「鳥海山」(2,236m)は現在も活火山とされているが、6世紀後半から8世紀初めにかけて盛んに噴火しており、それを鎮めるために祀られたともいう。噴火は戦乱の予告とされたほか、「続日本後紀」によれば石鏃を降らせたり、海賊に襲われた遣唐使船を助けたり(その根拠が不明だが)といった神威を現したとされ、噴火のたびに神階が上がり、「本朝世紀」天慶2年(939年)条の時点で既に正二位勳三等という極めて高い神階を受けていた。
ところで、「鳥海山」という山名が何時頃から使われていたか、また、山名の由来も、よくわかっていないらしい。古代には専ら「大物忌神」と呼ばれており、鳥海山自体が信仰の対象であったことがわかる。「日本三大実録」貞観13年(871年)の条に「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到」とあって、一般に、このときには既に鳥海山山頂に神社があったとされる。ただし、原文には句読点は無いから、「大物忌神社は飽海郡の山上に在り」ではなく、「大物忌神社は飽海郡に在り、山上は巌石が壁立し、・・・」と読むことも可能。個人的には、後者の読み方のほうが良いように思う。小祠くらいはあったかもしれないが、冬には雪で道が閉ざされ、参拝などできない(現在でも10月下旬~4月下旬まで冬季閉鎖)。よって、常設の神社は山麓にあったと思う。そもそも山自体が信仰の対象なのだから、敢えて山上に神社を建てる必要はないのではないだろうか。
「延喜式」神名帳では、出羽国9座(9社)のうち、「月山神社」と並び「名神大」社とされている。また、出羽国では最も神階の高い神社で、出羽国一宮とされることに異論はない。ただし、中世以降は神仏混淆し、特に修験が隆盛して「鳥海山大権現」と称され、「薬師如来」が本地仏とされた。近世には、山麓(登山口)での祭祀に宗派の争いなどが絡んで紛争が生じ、山頂の当神社が出羽国一宮と定められた経緯がある(別項で書く予定)。現在では、「鳥海山」山頂の「御本社」と、山麓の「吹浦」・「蕨岡」の2つの社を「口之宮」として、3社一体で「鳥海山大物忌神社」となっている。
遊佐鳥海観光協会のHPから(鳥海山大物忌神社)
鳥海国定公園観光開発協議会のHPから(鳥海山登山ガイド)
玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社)
写真1:「鳥海山」7合目の「鳥ノ海」(鳥海湖)。「鳥海山」噴火によってできたカルデラ湖で、湖面標高1,575m、満水時面積0.7ha、最大水深3m。「鳥海山」の名の由来になったともされる。
写真2:「鳥ノ海」の少し上にある「御浜神社」(御浜小屋)
写真3:山頂付近の「鳥海山大物忌神社」鳥居。登り口の駐車場では晴れていたのだが、登山中は殆ど霧。
写真4:「鳥海山大物忌神社」社号標
写真5:同上、社殿。背後に最高峰「新山」があり、登山者は神社前にザックをデポして登る。
写真6:「鳥海山大物忌神社 中の宮」。「国民宿舎 大平山荘」(鳥海ブルーライン四合目)に隣接。昭和49年に噴煙が上がったため全山入山禁止となり、「鳥海山」中腹に造営された「中の宮」に一時遷座したという。