造立神社(つくりたてじんじゃ)。通称:虚空蔵さん。
場所:秋田県横手市雄物川町造山字造山10。国道107号線「広田面」交差点を北へ、約360m進み(「里見郵便局」の1つ先(北))交差点を左折(西へ)、約240m。駐車場なし。
当神社は、室町時代末期に当地の豪族・山内式部が守護神として祀った「虚空蔵神社」と、天明3年(1783年)に京都の「伏見稲荷大社」(山城国式内社「稲荷神社」)から勧請した「稲荷神社」を、明治42年に合祀したものという。通称「虚空蔵さん」と言い、本来は仏教の「虚空蔵菩薩」で、丑年・寅年生まれの人の守り本尊とされる。現在の祭神は、面足命(オモダル)と稲倉魂命(ウカノミタマ)。このように、神社としては中世以降のものだが、その鎮座地は人造の山、即ち「古墳」の上にあると伝えられており、地名の由来ともなっている。ただし、発掘調査等が行われていないようで、この丘が古墳かどうかは不明。
ところで、最近、古代「雄勝城」の擬定地として、当地周辺が注目されている。まず、「造立神社」の南西、約700mのところに「蝦夷塚古墳群」がある。この古墳群は、国道107号線バイパス工事の際に発見され、発掘調査が行われたが、昭和30年頃の水田造成によって墳丘部は既に削平されていた。古墳であることがわかったのは、円形の周溝が火山灰で埋まった跡が発見されたからだという。縄文時代から平安時代の複合遺跡だが、古墳は8世紀中期頃のものと推定されている。最大の古墳(1号墳)は周溝内周の直径約7.8m、外周の直径約10.8mあり、地上2~3mの盛り土がされていたらしい(因みに、国道107号線は1号墳の真上を通っている。)。現在までの調査で、古墳の数は20個近く発見されているが、最近、さらに重要な発見があった。それは、墓域を画するものと思われていた溝跡から、古墳群と同時代頃と考えられる柵列跡が確認されたというもの。円柱状の杭跡約80個がほぼ直線上に並び、11ヵ所には杭の木片が残っていた。柵列跡は、東西に長さ約100m、幅約0.5m、深さ約1mという柱穴様ピット。また、竪穴式建物跡も発見されているが、竈が壁の外に造られた構造だったという。従来、7~8世紀の横手盆地の住居遺跡では、竈は壁の内側に造られているのが通例で、竈が壁の外側にあるのは関東地方で多く見られる様式なのだということである。これは即ち、「続日本紀」天平宝字3年(759年)記事の「坂東8国、越前・越中・能登・越後等4国の浮浪人2千人を移し、雄勝柵戸とする。」という住民移住政策による集落跡なのではないか、というわけである。
そのほか、造山地区周辺には、なかなか興味深い遺跡も多い。例えば、「首塚神社」(場所:秋田県横手市雄物川町今宿字高花、「雄物川高校」入口付近から北へ約300m、駐車場なし)は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征討の際、戦死者の首約1千を埋葬したことから首塚と名づけたという伝承がある(その後、八幡太郎源義家が、後三年合戦(1083~1087年)で戦死した敵味方の首級890をこの塚に埋葬したともいう。)。現在は、塚の上に社殿があるが、かつては塚の前にあり、塚自体を祀っていたとされる。今、社殿には、この塚から出土した人頭形の石が安置されており、これを拝むと学力向上や頭の諸病平癒に霊験あらたかという。また、「首塚神社」の手前(南)約100mのところ(「佐藤内科医院」入口付近)に「ミカド屋敷(深江弥加止)跡」という標柱が立てられている。「深江弥加止(ふかえみかど)」というのは、出羽国の俘囚で、「元慶の乱」(元慶2年:878年)の際、出羽国府側に味方して「添河」・「覇別」・「助川」3村の俘囚200人余を率いて反乱勢力と戦い、戦局を逆転させる戦功のあった人物で、その屋敷が当地にあったというのである。更に、「首塚神社」から北へ約1.4km進むと、「沼の柵跡」(推定地)(場所:横手市雄物川町沼館429、「雄物川北小学校」の南側、「蔵光院」付近。駐車場有り)がある。後三年合戦において、清原家衡は当初「沼の柵」に拠り、清原清衡・源義家の連合軍を迎え撃ったという。あるいは、「沼の柵」以前にも「城」があったのかもしれない。
秋田県神社庁のHPから(造立神社)
秋田県教育庁のHPから(蝦夷塚古墳群)
横手市のHPから(首塚神社)
同(沼柵跡(推定地))
写真1:「造立神社」鳥居と社号標。石段の脇に小さな社殿があるが、境内社だろう。
写真2:同上、杉木立の中の参道を進む。古墳であるとすると、双円墳?
写真3:同上、社殿。社殿背後は崖。
写真4:「蝦夷塚古墳群」の説明板(場所:横手市雄物川町造山字蝦夷塚。国道107号線「広田面」交差点の西、約800m。国道から農道に入る入口付近。駐車場なし)
写真5:「首塚神社(こうべづかじんじゃ)」鳥居と社号標
写真6:同上、社殿
写真7:「ミカド屋敷(深江弥加止)跡」の標柱
写真8:「沼の柵跡」石碑。背後に見えるのは真言宗御室派「雄勝山 蔵光院」。秋田三十三観音霊場第5番札所。本尊:不動明王
場所:秋田県横手市雄物川町造山字造山10。国道107号線「広田面」交差点を北へ、約360m進み(「里見郵便局」の1つ先(北))交差点を左折(西へ)、約240m。駐車場なし。
当神社は、室町時代末期に当地の豪族・山内式部が守護神として祀った「虚空蔵神社」と、天明3年(1783年)に京都の「伏見稲荷大社」(山城国式内社「稲荷神社」)から勧請した「稲荷神社」を、明治42年に合祀したものという。通称「虚空蔵さん」と言い、本来は仏教の「虚空蔵菩薩」で、丑年・寅年生まれの人の守り本尊とされる。現在の祭神は、面足命(オモダル)と稲倉魂命(ウカノミタマ)。このように、神社としては中世以降のものだが、その鎮座地は人造の山、即ち「古墳」の上にあると伝えられており、地名の由来ともなっている。ただし、発掘調査等が行われていないようで、この丘が古墳かどうかは不明。
ところで、最近、古代「雄勝城」の擬定地として、当地周辺が注目されている。まず、「造立神社」の南西、約700mのところに「蝦夷塚古墳群」がある。この古墳群は、国道107号線バイパス工事の際に発見され、発掘調査が行われたが、昭和30年頃の水田造成によって墳丘部は既に削平されていた。古墳であることがわかったのは、円形の周溝が火山灰で埋まった跡が発見されたからだという。縄文時代から平安時代の複合遺跡だが、古墳は8世紀中期頃のものと推定されている。最大の古墳(1号墳)は周溝内周の直径約7.8m、外周の直径約10.8mあり、地上2~3mの盛り土がされていたらしい(因みに、国道107号線は1号墳の真上を通っている。)。現在までの調査で、古墳の数は20個近く発見されているが、最近、さらに重要な発見があった。それは、墓域を画するものと思われていた溝跡から、古墳群と同時代頃と考えられる柵列跡が確認されたというもの。円柱状の杭跡約80個がほぼ直線上に並び、11ヵ所には杭の木片が残っていた。柵列跡は、東西に長さ約100m、幅約0.5m、深さ約1mという柱穴様ピット。また、竪穴式建物跡も発見されているが、竈が壁の外に造られた構造だったという。従来、7~8世紀の横手盆地の住居遺跡では、竈は壁の内側に造られているのが通例で、竈が壁の外側にあるのは関東地方で多く見られる様式なのだということである。これは即ち、「続日本紀」天平宝字3年(759年)記事の「坂東8国、越前・越中・能登・越後等4国の浮浪人2千人を移し、雄勝柵戸とする。」という住民移住政策による集落跡なのではないか、というわけである。
そのほか、造山地区周辺には、なかなか興味深い遺跡も多い。例えば、「首塚神社」(場所:秋田県横手市雄物川町今宿字高花、「雄物川高校」入口付近から北へ約300m、駐車場なし)は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征討の際、戦死者の首約1千を埋葬したことから首塚と名づけたという伝承がある(その後、八幡太郎源義家が、後三年合戦(1083~1087年)で戦死した敵味方の首級890をこの塚に埋葬したともいう。)。現在は、塚の上に社殿があるが、かつては塚の前にあり、塚自体を祀っていたとされる。今、社殿には、この塚から出土した人頭形の石が安置されており、これを拝むと学力向上や頭の諸病平癒に霊験あらたかという。また、「首塚神社」の手前(南)約100mのところ(「佐藤内科医院」入口付近)に「ミカド屋敷(深江弥加止)跡」という標柱が立てられている。「深江弥加止(ふかえみかど)」というのは、出羽国の俘囚で、「元慶の乱」(元慶2年:878年)の際、出羽国府側に味方して「添河」・「覇別」・「助川」3村の俘囚200人余を率いて反乱勢力と戦い、戦局を逆転させる戦功のあった人物で、その屋敷が当地にあったというのである。更に、「首塚神社」から北へ約1.4km進むと、「沼の柵跡」(推定地)(場所:横手市雄物川町沼館429、「雄物川北小学校」の南側、「蔵光院」付近。駐車場有り)がある。後三年合戦において、清原家衡は当初「沼の柵」に拠り、清原清衡・源義家の連合軍を迎え撃ったという。あるいは、「沼の柵」以前にも「城」があったのかもしれない。
秋田県神社庁のHPから(造立神社)
秋田県教育庁のHPから(蝦夷塚古墳群)
横手市のHPから(首塚神社)
同(沼柵跡(推定地))
写真1:「造立神社」鳥居と社号標。石段の脇に小さな社殿があるが、境内社だろう。
写真2:同上、杉木立の中の参道を進む。古墳であるとすると、双円墳?
写真3:同上、社殿。社殿背後は崖。
写真4:「蝦夷塚古墳群」の説明板(場所:横手市雄物川町造山字蝦夷塚。国道107号線「広田面」交差点の西、約800m。国道から農道に入る入口付近。駐車場なし)
写真5:「首塚神社(こうべづかじんじゃ)」鳥居と社号標
写真6:同上、社殿
写真7:「ミカド屋敷(深江弥加止)跡」の標柱
写真8:「沼の柵跡」石碑。背後に見えるのは真言宗御室派「雄勝山 蔵光院」。秋田三十三観音霊場第5番札所。本尊:不動明王