足田遺跡(たらだいせき)。
場所:秋田県雄勝郡羽後町足田字雲雀野12。「羽後明成小学校」の西、約200m。駐車スペース有り。
「足田遺跡」は、天平宝字3年(759年)に陸奥守・藤原朝狩が造営した古代城柵「雄勝城」の有力擬定地。その名の通り、「雄勝郡」に置かれたとみられるが、「雄勝郡」というのは、天平5年(733年)に「出羽柵」を秋田村高清水岡に遷置したとき、「雄勝村」に郡を置いたという「続日本紀」の記事が初見。天平9年(737年)には、陸奥按察使兼鎮守将軍・大野東人が「男勝村」の蝦夷を帰順させ、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通したとされる。そして、天平宝字3年の記事になるのだが、このとき陸奥国では「桃生城」、出羽国では「雄勝城」が造営され、「始めて出羽国に雄勝・平鹿の2郡を置いた」ほか、「雄勝」などの7つの駅家を設置したことになっている。天平5年の記事と矛盾するようだが、その解釈として、①天平5年には「雄勝郡」を置く指示はあったが、実現できなかった、②天平5年にいったん「雄勝郡」を建郡したが、その後放棄された、③天平5年に「雄勝郡」が建郡され、天平宝字3年に「雄勝郡」から「平鹿郡」を分置した、という3説がある。どの説に依るべきかは難しいが、いずれにしても、天平宝字初め頃になって漸く、「雄勝城」を築けるほどに「雄勝郡」を治めることができるようになったということだろう。また、この記事にある「横河」という駅家も「雄勝郡」内にあった(現・秋田県湯沢市横堀?)とされることからすれば、おそらく、「雄勝」と名の付いた「雄勝城」、「雄勝郡家」、「雄勝駅家」は、ほぼ同じ場所にあったとみられる。
ということで、秋田県羽後町は地名等により、古くから「雄勝城」等の擬定地として注目されてきた。例えば、「「郡山」(郡家所在地?)、「糠塚」(駅家所在地?)、「西馬音内堀回」の「元城(元木)」(旧・「雄勝城」?)や「造道」(駅路?)、「仙道」(駅路?)、「足田」の「城神廻り」(城の守護神?)や「土館」(郡家?)など。「足田」を「たらだ」と読むのは難訓だが、語源は製鉄の「踏鞴(タタラ)」ではないかという説もある。また、承平年間(931~938年)頃の編纂とされる「和名類聚抄」の出羽国の郡名「雄勝」の注に「乎加知(おかち)。城あり、これを答合(たこう)という」と記されているが、「高尾田(たこうだ)」という地名もある。なお、現・羽後町のほぼ中心部にある「太平山」(標高474m)の山頂には「太平山煙岡神社」が鎮座しているが、かつては山自体が「煙岡」と呼ばれており、連絡のための烽火を上げたところとの伝承があるという。
こうした中、昭和36年に「足田」で柵列土坑跡とみられるものが発見され、以来、発掘調査が行われてきた。その結果、現・羽後明成小学校の丘上にあるグラウンドなどから(確認されたものだけで)総延長657mもの柵列土坑跡のほか、櫓跡らしきもの、墨書土器、窯跡などが出土した。この窯跡等の構造形式・出土物からみて、9世紀初頭末~中葉頃のものと推定された。このため、今でも「雄勝城」の有力擬定地ではあるのだが、現時点では、①他の城柵遺跡と異なり、丘の尾根頂部伝いに柵列土坑跡が連続していること、②柵列の木材自体が発見されていないこと、柱根が固められていないことなど、柵列跡かどうか自体にも疑問なしとしないこと、③官衙らしい建物の遺跡が発見されていないこと等、「雄勝城」跡とするには確証がない状況となっているようだ。ただ、私有地のため協力が得られず、広大な丘の一部しか発掘調査が行われてはいないようで、更なる調査が期待されている。
秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(足田)
写真1:「足田遺跡」の標柱
写真2:同上、グラウンドがあるだけで、特に遺跡らしいものはない。グラウンドのほぼ中央を南北に柵列土坑跡が走っていたようだ。
写真3:同上、グラウンドの向かい側(南側)。こちらは、現在は畑地で、やっぱり遺跡らしいものはないが、土坑跡が連続していたらしい。
場所:秋田県雄勝郡羽後町足田字雲雀野12。「羽後明成小学校」の西、約200m。駐車スペース有り。
「足田遺跡」は、天平宝字3年(759年)に陸奥守・藤原朝狩が造営した古代城柵「雄勝城」の有力擬定地。その名の通り、「雄勝郡」に置かれたとみられるが、「雄勝郡」というのは、天平5年(733年)に「出羽柵」を秋田村高清水岡に遷置したとき、「雄勝村」に郡を置いたという「続日本紀」の記事が初見。天平9年(737年)には、陸奥按察使兼鎮守将軍・大野東人が「男勝村」の蝦夷を帰順させ、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通したとされる。そして、天平宝字3年の記事になるのだが、このとき陸奥国では「桃生城」、出羽国では「雄勝城」が造営され、「始めて出羽国に雄勝・平鹿の2郡を置いた」ほか、「雄勝」などの7つの駅家を設置したことになっている。天平5年の記事と矛盾するようだが、その解釈として、①天平5年には「雄勝郡」を置く指示はあったが、実現できなかった、②天平5年にいったん「雄勝郡」を建郡したが、その後放棄された、③天平5年に「雄勝郡」が建郡され、天平宝字3年に「雄勝郡」から「平鹿郡」を分置した、という3説がある。どの説に依るべきかは難しいが、いずれにしても、天平宝字初め頃になって漸く、「雄勝城」を築けるほどに「雄勝郡」を治めることができるようになったということだろう。また、この記事にある「横河」という駅家も「雄勝郡」内にあった(現・秋田県湯沢市横堀?)とされることからすれば、おそらく、「雄勝」と名の付いた「雄勝城」、「雄勝郡家」、「雄勝駅家」は、ほぼ同じ場所にあったとみられる。
ということで、秋田県羽後町は地名等により、古くから「雄勝城」等の擬定地として注目されてきた。例えば、「「郡山」(郡家所在地?)、「糠塚」(駅家所在地?)、「西馬音内堀回」の「元城(元木)」(旧・「雄勝城」?)や「造道」(駅路?)、「仙道」(駅路?)、「足田」の「城神廻り」(城の守護神?)や「土館」(郡家?)など。「足田」を「たらだ」と読むのは難訓だが、語源は製鉄の「踏鞴(タタラ)」ではないかという説もある。また、承平年間(931~938年)頃の編纂とされる「和名類聚抄」の出羽国の郡名「雄勝」の注に「乎加知(おかち)。城あり、これを答合(たこう)という」と記されているが、「高尾田(たこうだ)」という地名もある。なお、現・羽後町のほぼ中心部にある「太平山」(標高474m)の山頂には「太平山煙岡神社」が鎮座しているが、かつては山自体が「煙岡」と呼ばれており、連絡のための烽火を上げたところとの伝承があるという。
こうした中、昭和36年に「足田」で柵列土坑跡とみられるものが発見され、以来、発掘調査が行われてきた。その結果、現・羽後明成小学校の丘上にあるグラウンドなどから(確認されたものだけで)総延長657mもの柵列土坑跡のほか、櫓跡らしきもの、墨書土器、窯跡などが出土した。この窯跡等の構造形式・出土物からみて、9世紀初頭末~中葉頃のものと推定された。このため、今でも「雄勝城」の有力擬定地ではあるのだが、現時点では、①他の城柵遺跡と異なり、丘の尾根頂部伝いに柵列土坑跡が連続していること、②柵列の木材自体が発見されていないこと、柱根が固められていないことなど、柵列跡かどうか自体にも疑問なしとしないこと、③官衙らしい建物の遺跡が発見されていないこと等、「雄勝城」跡とするには確証がない状況となっているようだ。ただ、私有地のため協力が得られず、広大な丘の一部しか発掘調査が行われてはいないようで、更なる調査が期待されている。
秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(足田)
写真1:「足田遺跡」の標柱
写真2:同上、グラウンドがあるだけで、特に遺跡らしいものはない。グラウンドのほぼ中央を南北に柵列土坑跡が走っていたようだ。
写真3:同上、グラウンドの向かい側(南側)。こちらは、現在は畑地で、やっぱり遺跡らしいものはないが、土坑跡が連続していたらしい。