払田柵跡(ほったのさくあと)。
場所:秋田県大仙市払田字仲谷地95ほか。国道13号線(大曲バイパス)「戸谷地」交差点から東に入り、一本北側の道路を直進、約5km。駐車場有り。なお、向かい側に「秋田県教育庁払田柵跡調査事務所」がある。
「払田柵跡」は、秋田県の横手盆地の北部、矢島川(北側)と丸子川(南側)に挟まれた「長森」と「真山」という2つの丘陵を中心に築かれた古代城柵遺跡である。ただし、文献上に現れないことから、その性格については諸説あり、遺跡名も(現在の)地名を採って名付けられた。当地の水田から埋もれ木が出土することは古くから知られていたが、地元の旧・六郷町の町長であった後藤宙外(小説家としても知られる。)が昭和4年から調査を開始、翌年には国の本格的発掘調査が行われ、昭和6年に秋田県初の国史跡に指定された。その後は、昭和49年から秋田県により継続調査が行われている。その結果、①「長森」を中心とする外郭と2つの丘陵を取り囲む外柵から成り、外柵は東西1,370m、南北780mの長楕円形で、面積は約88haという広大なもの(城柵遺跡として東北最大級)であること、②「長森」中央部に板塀で囲まれた掘立柱建物があり、建物配置や造営技術等からして律令制官荷様式の政庁(正殿・東西脇殿)とみられること、③外郭の柵木は、年輪年代法によれば延暦20年(801年)に伐採された杉材が使われていたこと、また、出土物の中に嘉祥2年(849年)銘の木簡があったこと、④主要建物は5回ほど建て替えられており、施設としては10世紀後半までは存続したことが確実であること、などが判明している。
「払田柵」の性格については、大別して、「雄勝城」説、「河辺府」説、「山本郡家(郡街)」説がある。「雄勝城」説は、「払田柵」の規模の大きさからして史書に記載されない施設のはずはないということを前提に、それは、「日本三代実録」元慶5年記事にある「一府二城(出羽国府と秋田城・雄勝城)、もって非常に備う」の1つである「雄勝城」しかないとする。そして、その位置として、史料の解釈からして、雄物川流域沿岸部にあって、「秋田城」から駅家2つ分手前(南)の距離のところとすれば、「払田柵跡」しかない、というものである。ところが、「雄勝城」の完成は天平宝字4年(760年)である(「続日本紀」)のに対し、上記の柵木の年代測定により「払田柵」の造営は延暦20年(801年)以降ということが確実となったので、少なくとも「続日本紀」でいう「雄勝城」ではないということになった。次に、「河辺府」説であるが、「秋田城」は少なくとも8世紀後半には出羽国府の機能を有していたが、宝亀11年(780年)には「河辺」への移転が議論され、結局、延暦23年(804年)には「秋田城」は停廃されて「秋田郡」に改編される。このとき、国府の移転先が「河辺府」とされている(「日本後紀」)。「払田柵」が「河辺府」であるという根拠は、造営時期が合うこと、当地が雄物川・丸子川の合流する地で古くから「河辺」と称されていたこと、政庁の様式からみて国府があったとみられること、「和名類聚抄」に「国府は平鹿郡に在り」と注記されていることにも合致することなどである。なお、この説では、国府は、弘仁6~7年(815~816)年頃になって出羽郡(「城輪柵跡」?)に再移転した、とする。これに対して、最近有力なのが「第2次雄勝城」説で、当初は雄勝郡(現・秋田県羽後町元木・足田、あるいは同・横手市雄物川町造山)にあったが、9世紀初頭に当地に移転した、というものである。当地が「雄勝郡」であったことはないから、移転した後でも「雄勝城」(「日本三代実録」元慶2年(878年)記事にその名が出てくる。)というのはおかしい、という批判に対しては、「出羽柵」も現・山形県庄内地方から現・秋田県秋田市に移転しても、「出羽柵」と言っているではないかという反論をしている。ただ、「出羽」は国名でもあり、「出羽柵」が国府機能を持っていたことを考えると、同レベルに論じられない気もする。「山本郡家(郡衙)」説は、出羽国府が一貫して現・山形県庄内地方にあったとする論者に多く、「河辺府」は「河辺郡家(郡衛)」の意味であり、「払田柵」は「山本郡家(郡衙)」であるとする。山本郡(近世以降の「仙北郡」)の建郡時期は不明であるが、史料上の初出は「日本三代実録」の貞観12年(870年)記事で、平安時代初期には平鹿郡から独立して建郡されたとみられているので、そうであれば、造営時期は合致することになる。
謎が多い遺跡であるが、周辺を含めて、継続して調査が行われているので、今後の成果に期待したい。
秋田県教育庁払田柵跡調査事務所のHP
大仙市のHPから(払田柵跡とは?)
写真1:「払田柵跡」。
写真2:外柵南門(復元)。堂々とした八脚門
写真3:外郭南門跡。石段を上って政庁に至る。
写真4:正殿跡
写真5:「ホイドスズ」という湧水井戸。政庁から北側に下りて少し西側のところにある。今も水が湧いている。
写真6:外郭西門(復元)
場所:秋田県大仙市払田字仲谷地95ほか。国道13号線(大曲バイパス)「戸谷地」交差点から東に入り、一本北側の道路を直進、約5km。駐車場有り。なお、向かい側に「秋田県教育庁払田柵跡調査事務所」がある。
「払田柵跡」は、秋田県の横手盆地の北部、矢島川(北側)と丸子川(南側)に挟まれた「長森」と「真山」という2つの丘陵を中心に築かれた古代城柵遺跡である。ただし、文献上に現れないことから、その性格については諸説あり、遺跡名も(現在の)地名を採って名付けられた。当地の水田から埋もれ木が出土することは古くから知られていたが、地元の旧・六郷町の町長であった後藤宙外(小説家としても知られる。)が昭和4年から調査を開始、翌年には国の本格的発掘調査が行われ、昭和6年に秋田県初の国史跡に指定された。その後は、昭和49年から秋田県により継続調査が行われている。その結果、①「長森」を中心とする外郭と2つの丘陵を取り囲む外柵から成り、外柵は東西1,370m、南北780mの長楕円形で、面積は約88haという広大なもの(城柵遺跡として東北最大級)であること、②「長森」中央部に板塀で囲まれた掘立柱建物があり、建物配置や造営技術等からして律令制官荷様式の政庁(正殿・東西脇殿)とみられること、③外郭の柵木は、年輪年代法によれば延暦20年(801年)に伐採された杉材が使われていたこと、また、出土物の中に嘉祥2年(849年)銘の木簡があったこと、④主要建物は5回ほど建て替えられており、施設としては10世紀後半までは存続したことが確実であること、などが判明している。
「払田柵」の性格については、大別して、「雄勝城」説、「河辺府」説、「山本郡家(郡街)」説がある。「雄勝城」説は、「払田柵」の規模の大きさからして史書に記載されない施設のはずはないということを前提に、それは、「日本三代実録」元慶5年記事にある「一府二城(出羽国府と秋田城・雄勝城)、もって非常に備う」の1つである「雄勝城」しかないとする。そして、その位置として、史料の解釈からして、雄物川流域沿岸部にあって、「秋田城」から駅家2つ分手前(南)の距離のところとすれば、「払田柵跡」しかない、というものである。ところが、「雄勝城」の完成は天平宝字4年(760年)である(「続日本紀」)のに対し、上記の柵木の年代測定により「払田柵」の造営は延暦20年(801年)以降ということが確実となったので、少なくとも「続日本紀」でいう「雄勝城」ではないということになった。次に、「河辺府」説であるが、「秋田城」は少なくとも8世紀後半には出羽国府の機能を有していたが、宝亀11年(780年)には「河辺」への移転が議論され、結局、延暦23年(804年)には「秋田城」は停廃されて「秋田郡」に改編される。このとき、国府の移転先が「河辺府」とされている(「日本後紀」)。「払田柵」が「河辺府」であるという根拠は、造営時期が合うこと、当地が雄物川・丸子川の合流する地で古くから「河辺」と称されていたこと、政庁の様式からみて国府があったとみられること、「和名類聚抄」に「国府は平鹿郡に在り」と注記されていることにも合致することなどである。なお、この説では、国府は、弘仁6~7年(815~816)年頃になって出羽郡(「城輪柵跡」?)に再移転した、とする。これに対して、最近有力なのが「第2次雄勝城」説で、当初は雄勝郡(現・秋田県羽後町元木・足田、あるいは同・横手市雄物川町造山)にあったが、9世紀初頭に当地に移転した、というものである。当地が「雄勝郡」であったことはないから、移転した後でも「雄勝城」(「日本三代実録」元慶2年(878年)記事にその名が出てくる。)というのはおかしい、という批判に対しては、「出羽柵」も現・山形県庄内地方から現・秋田県秋田市に移転しても、「出羽柵」と言っているではないかという反論をしている。ただ、「出羽」は国名でもあり、「出羽柵」が国府機能を持っていたことを考えると、同レベルに論じられない気もする。「山本郡家(郡衙)」説は、出羽国府が一貫して現・山形県庄内地方にあったとする論者に多く、「河辺府」は「河辺郡家(郡衛)」の意味であり、「払田柵」は「山本郡家(郡衙)」であるとする。山本郡(近世以降の「仙北郡」)の建郡時期は不明であるが、史料上の初出は「日本三代実録」の貞観12年(870年)記事で、平安時代初期には平鹿郡から独立して建郡されたとみられているので、そうであれば、造営時期は合致することになる。
謎が多い遺跡であるが、周辺を含めて、継続して調査が行われているので、今後の成果に期待したい。
秋田県教育庁払田柵跡調査事務所のHP
大仙市のHPから(払田柵跡とは?)
写真1:「払田柵跡」。
写真2:外柵南門(復元)。堂々とした八脚門
写真3:外郭南門跡。石段を上って政庁に至る。
写真4:正殿跡
写真5:「ホイドスズ」という湧水井戸。政庁から北側に下りて少し西側のところにある。今も水が湧いている。
写真6:外郭西門(復元)