神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

靈山朝日嶽神社(出羽国式外社・その7?)

2016-04-09 23:57:32 | 神社
靈山朝日嶽神社(れいざんあさひたけじんじゃ)。
場所:山形県西村山郡朝日町大字立木字朝日嶽1039-1。「朝日町役場」付近から山形県道289号線(白滝宮宿線)を西~南西へ進み、「白滝」の先も道なりに南下、宿泊施設「朝日鉱泉ナチュラリストの家」が登山口(駐車場あり)。そこから「鳥原山」山頂(標高1430m)へは登山道を約3時間、「大朝日岳」山頂(標高1870m)には更に約4時間。「鳥原山」手前の「鳥原小屋」隣に「靈山朝日嶽神社」の社殿(里宮)があり、「大朝日岳」下の「大朝日小屋」手前の小ピーク(標高1769m)に「靈山朝日嶽神社」の奥社の石碑と石祠がある。なお、「朝日鉱泉」までの途中の道路は冬季閉鎖のほか、自然災害による通行止めもあるので、注意。
伝承によれば、白鳳8年(668年)、修験道の祖・役小角(役行者)が「朝日連峰」(「朝日岳」・「朝日山」という名の山は多いため、区別して「朝日連峰」と称することが多い。山形県と新潟県に跨る南北60km・東西30kmという巨大な山塊である。火山ではないため、所謂「温泉」がない。)を開山し、主峰「大朝日岳」の山頂に天照大御神を、「西朝日岳」山頂(「奥朝日岳」ともいう。標高1814m)に建御名方神を、その他の山々にもそれぞれ神を祀った。24年後に再度来山し、弟子の覺道を山麓に留めて、諸神に奉仕させたとされる。現在の「朝日連峰」には宗教色が殆ど無いが、かつての「朝日修験」は最盛時には山麓等に3千以上の寺院宿坊があったという。しかし、「朝日修験」のあまりに強大な勢力に加え、「承平・天慶の乱」(平安時代中期)の平将門の残党や「治承・寿永の乱(源平合戦)」(平安時代末期)の平家落人が「朝日連峰」山麓に流入していたとされることから、鎌倉幕府の執権・北条時頼(最明寺入道)が「朝日修験」に対して弾圧を加え、「朝日大権現」の堂塔を破却したり、仏像仏具等を廃棄したりしたため、「朝日修験」は廃絶したとされる。当神社は、明治10年、「鳥原山」に復興されたもので、現在の祭神は天照大日霊貴尊(アマテラスオオヒルメムチ)と建御名方命(タケミナカタ)。
さて、「日本三代実録」貞観12年(870年)条にある「出羽国の白磐神と須波神に従五位下を授けた」という記事の「須波神」が当神社に当たる(国史現在社)とする説がある。同時に神階授与された「白磐神」を「(村山)葉山」山頂に鎮座する「白磐神社」(2016年3月26日記事)に比定するのがほぼ通説化しているが、「須波神」の方は難解である。「出羽三山」(式内社「月山神社」(2015年1月17日記事)・「出羽神社」(2015年1月31日記事))や「(村山)葉山」(「白磐神社」)の修験と並んで強勢を誇ったという「朝日修験」の神が歴史に現れないはずがない、という発想なのだろうが、論拠に乏しいように思われる。そもそも、「須波神」といえば、信濃国一宮「諏訪大社」(現・長野県諏訪市)がまず思い浮かぶ。「日本書紀」の持統天皇5年(691年)の記事に「使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせた」とあるが、その「須波」の神が「諏訪大社」のことであるとされている。ただ、「諏訪大社」については、平安時代の「延喜式神名帳」には「南方刀美神社」、「日本三代実録」には「建御名方富命神社」(貞観7年(865年)記事)となっていて、上記の「日本三代実録」貞観12年記事の「須波神」が「諏訪大社」の神と同じなのか、という疑問がある。「秋田の神々と神社」の著者・佐藤久治氏によれば、出羽国の他の式内社・式外社が、いずれも山や(温)泉など自然神が元になっていて、「須波神」だけが建御名方命という人格神ではありえない、また、出羽国で「諏訪神社」が祀られるようになるのは中世以降だろうと示唆している。また、「朝日修験」というように、天照大神が主神だったと思われるのに、何故「須波神」だけに神階授与されるのかという疑問もある。「須波」というと「諏訪」をまず連想するのが当然ではあるが、「阿須波神」という神もある。阿須波神は大年神の子神で、宮中の神として「座摩巫祭神五座」(「延喜式神名帳」)の5柱のうちに名がある。また、山城国一宮「賀茂別雷神社」(現・京都府京都市)の境内社の1つに「須波神社」(祭神:阿須波神)があり、これが山城国式内社「須波神社」の論社になっているが、江戸時代までは「諏訪神社」と称されていたという。また、越前国式内社「足羽神社」(現・福井県福井市)は、表記は違うが、「アスワ」と読み、継体天皇と阿須羽神など宮中座摩五座の神を祀っている。「須波神」が阿須波神なら、その神を信奉する人々が越前国から日本海を渡って出羽国まで到来したかもしれない。一方、人格神ではないとすると、地形由来の地名を採ったか、ということだが、「白磐(白岩)」と違って、出羽国域内に「スワ」という著名な遺称地は見当たらない。現在、「スワ」という地名は殆どが、その地に勧請された「諏訪神社」に由来するものと思われる。一般的には、「スハ」・「スワ」と呼ぶ地形は、「沢(サワ)」が訛ったもの、「州曲(スワ)」で河川の氾濫原・曲流地とかで、崖地、谷、低湿地などをいうらしい。「諏訪神社」と関係がない「スワ」を探すのは中々難しいのが実情である。


「朝日鉱泉ナチュラリストの家」さんのHP


(お断り:現地に見に行くのを旨にしていましたが、日帰りが難しいので、諦めました。画像はネット上にあるものをお借りしました。)

参考画像1:「靈山朝日嶽神社」里宮


参考画像2:同上、奥宮の石碑


参考画像3:同上、奥宮の石祠


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湯殿山神社本宮

2016-04-06 23:49:14 | 神社
湯殿山神社本宮(ゆどのさんじんじゃほんぐう)。
場所:山形県鶴岡市田麦俣字六十里山7。国道112号線(「月山花笠ライン」または「六十里越街道」)から「湯殿山有料自動車道」に入り、「大鳥居」前の駐車場に着く。ここから先、徒歩(約30分。結構きつい。)か参拝用バス(有料、所要時間約5分)に乗って「本宮」入口まで。そこから、石段で梵字川のほうへ下りる。木戸のところで裸足となり、水で清めた後、御祓いを受けてから参拝する。なお、冬期間(ほぼ11月~4月)は閉鎖されており、参拝は「羽黒山」の「三神合祭殿」で行う。
伝承によれば、「出羽三山」(羽黒山・月山・湯殿山)は推古天皇元年(593年)、崇峻天皇の御子・蜂子皇子が先ず「羽黒山」(標高418m)に登って山頂に羽黒権現の祠を創建し、次いで「月山」(同1984m)、「湯殿山(」同1500m)を開いたとされる。しかし、「出羽三山」には元々、「湯殿山」は入っておらず、代わりに「鳥海山」または「(村山)葉山」が数えられていた。「湯殿山(神社)」の別当寺であった真言宗豊山派「湯殿山総本寺 瀧水寺 金剛院 大網大日坊」の寺伝によれば、大同2年(807年)に弘法大師(空海)が湯殿山を開山したという。大同2年という年号は、出羽国で古社寺の創建伝承によく出てくるもので信頼できないし、弘法大師が当地に来たとも思えない(因みに、空海が唐から帰国したのが大同元年で、その後約2年間は大宰府に居たらしい。)。こうした伝承の違いは、「出羽三山」のうち「羽黒山」と「月山」は別当寺が天台宗系、「湯殿山」は真言宗系だったことによるものだろう。それはさておき、「出羽三山」の修験を中心とする信仰として、「羽黒山」を観音菩薩(現在)、「月山」を阿弥陀如来(過去)、「鳥海山」または「葉山」を薬師如来(未来)に当て、現在・過去・未来の三関を超越して、「湯殿山」の大日如来と一体化する、ということがあった。即ち、本来は、「湯殿山」は「出羽三山」の「総奥之院」として別格のものとされたわけである。しかし、16世紀半ばに「瑞宝山 慈恩寺」(前項)が「葉山」から離れ、葉山修験が衰退していったことから、「湯殿山」が「出羽三山」に加えられることになったという。いずれにせよ、「羽黒山」(「出羽神社」)と「月山」(「月山神社」)の神は「延喜式神名帳」にあるが、「湯殿山」の神の名は無い。また、「六国史」にも記事はないようである。当時まだ発見されていなかったのか、神社として認識されていなかったのか、さして重要と思われていなかったのか、事情は不明である。
さて、「本宮」の入口からは写真撮影禁止となる。現在の祭神は大山祇命・大己貴命・少名彦名命の3神で、これを総称して「湯殿山権現」というが、当神社に社殿は無い。山自体に神霊が宿り、社殿などの人工物を造ることは禁じられているとのこと。拝礼は御神体に向かって行うのだが、「語るなかれ 聞くなかれ」とされた御神体は、温泉が湧き出ている茶褐色の巨岩で、裸足のまま参拝すると、足湯の効果に加えて足のツボも刺激され、確かに身体が活性化される気もする。この温泉の泉質は食塩含有炭酸鉄泉で湯温52度、御神体が茶褐色なのは温泉の鉄分の沈着による。
なお、「湯殿山」では上記の大日如来との一体化、即ち即身成仏の行が行われた。現在、全国に17体の即身仏が現存しているが、そのうち10体が湯殿山系とされる。これらの即身仏は当神社の別当寺であった「瀧水寺 大日坊」や「注連寺」などに現存しているが、「真如海上人」、「鉄門海上人」など法名に「海」の字が付いているのは弘法大師・空海に因むものという。


出羽三山神社のHPから(湯殿山神社)

玄松子さんのHPから(湯殿山神社)


写真1:「湯殿山神社(本宮)」大鳥居。左手に見えるのは参篭所。


写真2:「本宮」入口の「湯殿山本宮」の石碑。ここから先は写真撮影禁止。


写真3:大鳥居の向かって右側にある「仙人沢霊場」。正面の小堂には即身仏(模擬像)が祀られている。「仙人沢」は即身成仏の修行の場所であったとのこと。
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瑞宝山 本山慈恩寺

2016-04-02 23:56:39 | 寺院
瑞宝山 本山慈恩寺(ずいほうざん ほんざんじおんじ)。
場所:山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31。国道287号線沿い「醍醐小学校」の西側の道路を北に約200m進んだ交差点で左折(西へ)、更に200m進むと駐車場があり、そこから参道を徒歩で約10分上る。または、その山麓の駐車場を通り過ぎ、案内板の指示に従って上っていけば、山門の東、約150mのところにも駐車場がある。
寺伝によれば、神亀元年(724年)に行基が当地を訪れ、都に戻った後、その奏上により天平18年(746年)聖武天皇の勅命を受けてインド僧・婆羅門僧正(菩提僊那:ボーディセーナ)が寺院を建立したのが創建とされ、「寒江山 大慈恩律寺」と称したという。流石に、これは伝説に過ぎないだろうが、現在も法会は法相宗系の法式を伝えているとのことから、平安時代初期(9世紀頃?)に法相宗の寺院があった可能性があるとされている。仁平年間(1151~1153年)に奈良「興福寺」の願西上人を本願者として再興されたと伝えるが、当時、当地は摂関家・藤原氏の荘園地で、藤原氏の氏寺である「興福寺」(法相宗総本山)の影響の下に整備されたということらしい。「慈恩寺」という寺号も法相宗の宗祖・慈恩大師に因むもので、本尊も法相宗寺院に通例の弥勒菩薩であったという。ただし、この頃(12世紀)には「毛越寺」・「中尊寺」(現・岩手県平泉町)、「立石寺」(現・山形県山形市)など天台宗の寺院が隆盛しており、その影響も受けていたようである。文治元年(1185年)には、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、「瑞宝山」の山号を賜る一方、「高野山」から弘俊阿闍梨が来山して真言宗と修験道が導入された。以来、真言宗を主としながらも、法相宗、天台宗なども兼学する寺院として存続し、「(村山)葉山」を「奥の院」とする「葉山修験」の中心地となった。ただし、「葉山修験」については、天文年間(1532~1555年)に「奥之院」を「葉山」から「三合山(十部一峠)」に移したこと等から、中心寺院が「葉山大円院」に移り、全体として次第に衰退していったという(前項「白磐神社」参照)。その後、戦乱に巻き込まれるなど紆余曲折あるが、江戸時代には、別当「最上院」(天台宗)、学頭「宝蔵院」・「華蔵院」(真言宗)の3ヵ院・48坊で一山を形成し、寛文5年(1665年)には御朱印高2812石余(東北地方最高)を与えられた。しかし、明治時代に入ると、朱印地が廃止されて経済的に困窮するようになり、現在は3ヵ院17坊となったが、真言宗・天台宗兼学の「慈恩宗」を宗旨とする「本山慈恩寺」と称するようになっている。なお、「慈恩寺旧境内」が国指定史跡となっているほか、「慈恩寺舞楽」が重要無形民俗文化財、「山門」・「三重塔」・「宝蔵院表門」・「熊野神社本殿」のほか、鎌倉時代などの仏像多数が山形県指定有形文化財となっている。


本山慈恩寺のHP


写真1:「本山慈恩寺」山門


写真2:本堂


写真3:院坊の1つ「宝蔵院」


写真4:三重塔


写真5:鎮守社「熊野神社」


写真6:同上、社殿。祭神:伊弉諾命ほか。
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