瑞宝山 本山慈恩寺(ずいほうざん ほんざんじおんじ)。
場所:山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31。国道287号線沿い「醍醐小学校」の西側の道路を北に約200m進んだ交差点で左折(西へ)、更に200m進むと駐車場があり、そこから参道を徒歩で約10分上る。または、その山麓の駐車場を通り過ぎ、案内板の指示に従って上っていけば、山門の東、約150mのところにも駐車場がある。
寺伝によれば、神亀元年(724年)に行基が当地を訪れ、都に戻った後、その奏上により天平18年(746年)聖武天皇の勅命を受けてインド僧・婆羅門僧正(菩提僊那:ボーディセーナ)が寺院を建立したのが創建とされ、「寒江山 大慈恩律寺」と称したという。流石に、これは伝説に過ぎないだろうが、現在も法会は法相宗系の法式を伝えているとのことから、平安時代初期(9世紀頃?)に法相宗の寺院があった可能性があるとされている。仁平年間(1151~1153年)に奈良「興福寺」の願西上人を本願者として再興されたと伝えるが、当時、当地は摂関家・藤原氏の荘園地で、藤原氏の氏寺である「興福寺」(法相宗総本山)の影響の下に整備されたということらしい。「慈恩寺」という寺号も法相宗の宗祖・慈恩大師に因むもので、本尊も法相宗寺院に通例の弥勒菩薩であったという。ただし、この頃(12世紀)には「毛越寺」・「中尊寺」(現・岩手県平泉町)、「立石寺」(現・山形県山形市)など天台宗の寺院が隆盛しており、その影響も受けていたようである。文治元年(1185年)には、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、「瑞宝山」の山号を賜る一方、「高野山」から弘俊阿闍梨が来山して真言宗と修験道が導入された。以来、真言宗を主としながらも、法相宗、天台宗なども兼学する寺院として存続し、「(村山)葉山」を「奥の院」とする「葉山修験」の中心地となった。ただし、「葉山修験」については、天文年間(1532~1555年)に「奥之院」を「葉山」から「三合山(十部一峠)」に移したこと等から、中心寺院が「葉山大円院」に移り、全体として次第に衰退していったという(前項「白磐神社」参照)。その後、戦乱に巻き込まれるなど紆余曲折あるが、江戸時代には、別当「最上院」(天台宗)、学頭「宝蔵院」・「華蔵院」(真言宗)の3ヵ院・48坊で一山を形成し、寛文5年(1665年)には御朱印高2812石余(東北地方最高)を与えられた。しかし、明治時代に入ると、朱印地が廃止されて経済的に困窮するようになり、現在は3ヵ院17坊となったが、真言宗・天台宗兼学の「慈恩宗」を宗旨とする「本山慈恩寺」と称するようになっている。なお、「慈恩寺旧境内」が国指定史跡となっているほか、「慈恩寺舞楽」が重要無形民俗文化財、「山門」・「三重塔」・「宝蔵院表門」・「熊野神社本殿」のほか、鎌倉時代などの仏像多数が山形県指定有形文化財となっている。
本山慈恩寺のHP
写真1:「本山慈恩寺」山門
写真2:本堂
写真3:院坊の1つ「宝蔵院」
写真4:三重塔
写真5:鎮守社「熊野神社」
写真6:同上、社殿。祭神:伊弉諾命ほか。
場所:山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31。国道287号線沿い「醍醐小学校」の西側の道路を北に約200m進んだ交差点で左折(西へ)、更に200m進むと駐車場があり、そこから参道を徒歩で約10分上る。または、その山麓の駐車場を通り過ぎ、案内板の指示に従って上っていけば、山門の東、約150mのところにも駐車場がある。
寺伝によれば、神亀元年(724年)に行基が当地を訪れ、都に戻った後、その奏上により天平18年(746年)聖武天皇の勅命を受けてインド僧・婆羅門僧正(菩提僊那:ボーディセーナ)が寺院を建立したのが創建とされ、「寒江山 大慈恩律寺」と称したという。流石に、これは伝説に過ぎないだろうが、現在も法会は法相宗系の法式を伝えているとのことから、平安時代初期(9世紀頃?)に法相宗の寺院があった可能性があるとされている。仁平年間(1151~1153年)に奈良「興福寺」の願西上人を本願者として再興されたと伝えるが、当時、当地は摂関家・藤原氏の荘園地で、藤原氏の氏寺である「興福寺」(法相宗総本山)の影響の下に整備されたということらしい。「慈恩寺」という寺号も法相宗の宗祖・慈恩大師に因むもので、本尊も法相宗寺院に通例の弥勒菩薩であったという。ただし、この頃(12世紀)には「毛越寺」・「中尊寺」(現・岩手県平泉町)、「立石寺」(現・山形県山形市)など天台宗の寺院が隆盛しており、その影響も受けていたようである。文治元年(1185年)には、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、「瑞宝山」の山号を賜る一方、「高野山」から弘俊阿闍梨が来山して真言宗と修験道が導入された。以来、真言宗を主としながらも、法相宗、天台宗なども兼学する寺院として存続し、「(村山)葉山」を「奥の院」とする「葉山修験」の中心地となった。ただし、「葉山修験」については、天文年間(1532~1555年)に「奥之院」を「葉山」から「三合山(十部一峠)」に移したこと等から、中心寺院が「葉山大円院」に移り、全体として次第に衰退していったという(前項「白磐神社」参照)。その後、戦乱に巻き込まれるなど紆余曲折あるが、江戸時代には、別当「最上院」(天台宗)、学頭「宝蔵院」・「華蔵院」(真言宗)の3ヵ院・48坊で一山を形成し、寛文5年(1665年)には御朱印高2812石余(東北地方最高)を与えられた。しかし、明治時代に入ると、朱印地が廃止されて経済的に困窮するようになり、現在は3ヵ院17坊となったが、真言宗・天台宗兼学の「慈恩宗」を宗旨とする「本山慈恩寺」と称するようになっている。なお、「慈恩寺旧境内」が国指定史跡となっているほか、「慈恩寺舞楽」が重要無形民俗文化財、「山門」・「三重塔」・「宝蔵院表門」・「熊野神社本殿」のほか、鎌倉時代などの仏像多数が山形県指定有形文化財となっている。
本山慈恩寺のHP
写真1:「本山慈恩寺」山門
写真2:本堂
写真3:院坊の1つ「宝蔵院」
写真4:三重塔
写真5:鎮守社「熊野神社」
写真6:同上、社殿。祭神:伊弉諾命ほか。