吉田神社(よしだじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市宮内町3193-2。国道51号線「城南3丁目」から南へ、約550m。突き当り(茨城県道180号線(長岡水戸線))の右側直ぐ。駐車場は、県道交差点から右折(南西へ)して直ぐ(約50m)、また右折(西へ)した先から進む。
当神社の創建時期は不明。ただし、正安4年(1301年)の当神社古文書によれば、同年は創建以来800余年に当たるとあるので、第23代顕宗天皇(485~487年)~第24代仁賢天皇(488~498年)の頃とする。日本武尊が東征の帰途、当地(朝日山)に兵を留めて憩われたという故事から当神社が創建され、日本武尊を祭神とした。その故事の中に、日本武尊が朝日山から湿地帯を眺め、「この辺りを開墾すれば吉き田になるだろう」と言われたとの伝承から、「吉田」という地名が生まれ、当神社も「吉田神社」と称されるようになったという。「延喜式神名帳」に登載された「式内社」(名神大)で、常陸国三宮とされる。何故、当神社が三宮とされたのかは不明だが、一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)、二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)がともに東夷平定に関わる神を祀っており、当神社の祭神である日本武尊もそうであるとすれば、関連があるのかもしれない。なお、常陸国においては、四宮以下は不明。「六国史」記事では、「続日本後紀」承和13年(846年)に常陸国那賀郡従五位下勲八等の「吉田神」が「名神」に列せられたことを最初に、「日本文徳天皇実録」天安5年(857年)に従四位下、「日本三代実録」貞観5年(863年)に従四位上、元慶2年(878年)に正四位下と神階が進められたことがみえる。また、後鳥羽天皇が建久4年(1193年)に国司に勅して社殿を改造せられ、以後は「鹿島神宮」の遷宮に次いで当神社の遷宮が行われる習わしとなった。後陽成天皇の父・誠仁親王からは天正4年(1567年)に「第三宮」の直筆を賜り、本社の扁額とした、という。しかし、中世には神宮寺の天台宗「薬王院」(現・「吉田山 神宮寺 薬王院」)の支配が強まり、神威は衰退した。江戸時代に入ると、水戸徳川家から篤く崇敬を受けるようになり、第2代水戸藩主・徳川光圀は寛文7年(1667年)に社殿等を造営したという(このときの社殿等は第二次世界大戦の戦災により焼失、現在の社殿等は昭和23年の再建)。
吉田神社のHP
写真1:境内入口の鳥居と社号標「常陸第三宮 吉田神社」
写真2:「朝日山」という小高い丘の上に鎮座。石段を上る。
写真3:駐車場の脇、「見晴台」と呼ばれる場所の一角にある「日本武尊御遺蹟」。「朝日三角山」とも呼ばれ、日本武尊が御旗を朝日に輝かせ、四方を展望された由縁の場所で、古くから聖地とされてきたという。
写真4:同上、玉垣に囲まれた石碑
写真5:随神門
写真6:拝殿
写真7:境内の「結びの笹」。利き手と反対の手で笹の葉を結べると、良縁に恵まれるとか。
写真8:本殿。簡素ながら力強い感じ。
場所:茨城県水戸市宮内町3193-2。国道51号線「城南3丁目」から南へ、約550m。突き当り(茨城県道180号線(長岡水戸線))の右側直ぐ。駐車場は、県道交差点から右折(南西へ)して直ぐ(約50m)、また右折(西へ)した先から進む。
当神社の創建時期は不明。ただし、正安4年(1301年)の当神社古文書によれば、同年は創建以来800余年に当たるとあるので、第23代顕宗天皇(485~487年)~第24代仁賢天皇(488~498年)の頃とする。日本武尊が東征の帰途、当地(朝日山)に兵を留めて憩われたという故事から当神社が創建され、日本武尊を祭神とした。その故事の中に、日本武尊が朝日山から湿地帯を眺め、「この辺りを開墾すれば吉き田になるだろう」と言われたとの伝承から、「吉田」という地名が生まれ、当神社も「吉田神社」と称されるようになったという。「延喜式神名帳」に登載された「式内社」(名神大)で、常陸国三宮とされる。何故、当神社が三宮とされたのかは不明だが、一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)、二宮「靜神社」(2018年2月24日記事)がともに東夷平定に関わる神を祀っており、当神社の祭神である日本武尊もそうであるとすれば、関連があるのかもしれない。なお、常陸国においては、四宮以下は不明。「六国史」記事では、「続日本後紀」承和13年(846年)に常陸国那賀郡従五位下勲八等の「吉田神」が「名神」に列せられたことを最初に、「日本文徳天皇実録」天安5年(857年)に従四位下、「日本三代実録」貞観5年(863年)に従四位上、元慶2年(878年)に正四位下と神階が進められたことがみえる。また、後鳥羽天皇が建久4年(1193年)に国司に勅して社殿を改造せられ、以後は「鹿島神宮」の遷宮に次いで当神社の遷宮が行われる習わしとなった。後陽成天皇の父・誠仁親王からは天正4年(1567年)に「第三宮」の直筆を賜り、本社の扁額とした、という。しかし、中世には神宮寺の天台宗「薬王院」(現・「吉田山 神宮寺 薬王院」)の支配が強まり、神威は衰退した。江戸時代に入ると、水戸徳川家から篤く崇敬を受けるようになり、第2代水戸藩主・徳川光圀は寛文7年(1667年)に社殿等を造営したという(このときの社殿等は第二次世界大戦の戦災により焼失、現在の社殿等は昭和23年の再建)。
吉田神社のHP
写真1:境内入口の鳥居と社号標「常陸第三宮 吉田神社」
写真2:「朝日山」という小高い丘の上に鎮座。石段を上る。
写真3:駐車場の脇、「見晴台」と呼ばれる場所の一角にある「日本武尊御遺蹟」。「朝日三角山」とも呼ばれ、日本武尊が御旗を朝日に輝かせ、四方を展望された由縁の場所で、古くから聖地とされてきたという。
写真4:同上、玉垣に囲まれた石碑
写真5:随神門
写真6:拝殿
写真7:境内の「結びの笹」。利き手と反対の手で笹の葉を結べると、良縁に恵まれるとか。
写真8:本殿。簡素ながら力強い感じ。