神が宿るところ

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虎塚古墳

2018-06-16 23:21:12 | 古墳
虎塚古墳(とらづかこふん)。
場所:茨城県ひたちなか市中根字指渋34394-1ほか。「中根小学校」付近から茨城県道63号線(水戸勝田那珂湊線)を西へ約300mの交差点から(案内標識有り)、北東へ約1.1kmで「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」。駐車場有り。「虎塚古墳」までは南西方向に徒歩5分。
「虎塚古墳」は、那珂川下流左岸(北側)の低い台地上に築かれた前方後円墳。全長56.5m、後円部径32.5m、前方部幅38.5mという規模で、周濠を伴っている。昭和48年の発掘調査により、後円部に凝灰岩製の横穴式石室があり、その内部に保存状態良好な彩色壁画が発見された。石室は玄室と羨道から成り、玄室は天井3枚、東側壁1枚、西側壁2枚、奥壁1枚の切石で築かれ、内法は長さ3m、幅1.4m、高さ1.5m。玄室内壁には床面を含め白色粘土が塗られ、ベンガラ(酸化第二鉄。赤色の塗料)で三角連続文・環状文・渦文などのの幾何学文様や、槍・楯・大刀・靭(ゆぎ。矢を入れて携行する武具)といった当時の武器・武具等が描かれていた。また、石室内部からは、成人男子の遺骸の一部、副葬品の小大刀・刀子・鉄鏃などが出土した。築造時期は、前方部が発達した墳丘の特徴や出土遺物からみて、古墳時代終末期である7世紀初め頃と推定されている。なお、通常は石室は閉じられているが、春と秋の年2回、石室壁画を一般公開しているとのこと。
ところで、被葬者については当然ながら不明となっているが、東国では「虎塚古墳」のような装飾古墳は少なく、特に前方後円墳は極めて珍しいという。装飾古墳が多いのは九州北部だそうで、「虎塚古墳」の被葬者は九州から移ってきた人物ではないかとの説がある。「常陸国風土記」行方郡の条には、「建借間命」(タケカシマ)が東国の荒賊を討伐し、仲(那賀)国造の初祖に任命されたとの記事があり、「古事記」には、「神八井耳命」(カムヤヰミミ)は意富臣(多氏)、火(肥)君、大分君、阿蘇君、常道(常陸国)仲国造などの祖であるとの記事がある。そうすると、「建借間命」は多氏と同族で、九州北部を本拠としていた一族の出身者であったが、常陸国に派遣されてきたと考えられる。そこで、「虎塚古墳」の被葬者も仲国造家の関係者ではないか、ということのようである。


ひたちなか市のHPから(虎塚古墳)

ひたちなか市観光協会のHPから(虎塚古墳:PDF)


写真1:「虎塚古墳史跡公園」入口。「虎塚古墳」は昭和49年に国指定史跡に指定。


写真2:「虎塚古墳」前方部(南西から)。前方後円墳の形がよくわかる。


写真3:後円部


写真4:後円部に石室がある。


写真5:後円部から前方部をみる。括れ部分がわかる。


写真6:後円部墳頂から前方部をみる。
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