十五郎穴(じゅうごろうあな)。十五郎穴横穴墓群。
場所:茨城県ひたちなか市中根3490ほか。「虎塚古墳」(前項)の南、約250m(徒歩約5分)。
「十五郎穴(横穴墓群)」は、本郷川右(西)岸の台地の崖(凝灰岩)に掘られた横穴墓が群集しているもので、3つの支群に分かれているが、合わせると300基以上の横穴墓があるとされている。造られたのは古墳時代末期~奈良時代に亘るという。構造は古墳の横穴式石室に似ており、発祥は5世紀後半の九州北部地方にあるとされるが、現存しているものは何故か関東地方に多い。茨城県の近県では、埼玉県吉見町の「吉見百穴」(200基以上、国史跡)、栃木県宇都宮市の「長岡百穴」(52基)、千葉県長柄町の「長柄横穴群」(300基以上、国史跡)などが有名で、東京都、神奈川県にもある。何故群集して造られたか不明だが、「大化の改新」による所謂「薄葬令」(大化2年:646年)が関連しているらしい。つまり、これにより地方豪族の権威の象徴であった大きな古墳の造営は殆ど無くなり、簡素な横穴墓が増えたというのである。なお、「館出支群第32号墓」から銅製の方頭金具が付いた大刀が出土した。また、「館出支群第35号墓」からは、鞘尻金具や帯取り金具などの飾り金具が付いた刀子と蕨手刀が出土した。この刀子については、正倉院所蔵品との類似点が見られるという。
因みに、「十五郎穴」という名は、鎌倉時代初期の武士で、仇討で有名な曾我十郎祐成・五郎時致の兄弟がここに隠れ住んでいたとの伝説によるといい、「虎塚古墳」(前項)は十郎の愛人・虎御前の墓として築かれたといわれていたという。
茨城県教育委員会のHPから(十五郎穴)
ひたちなか市観光協会のHPから(十五郎穴:PDF)
写真1:「十五郎穴」。茨城県指定史跡。
写真2:同上
写真3:同上
写真4:同上
場所:茨城県ひたちなか市中根3490ほか。「虎塚古墳」(前項)の南、約250m(徒歩約5分)。
「十五郎穴(横穴墓群)」は、本郷川右(西)岸の台地の崖(凝灰岩)に掘られた横穴墓が群集しているもので、3つの支群に分かれているが、合わせると300基以上の横穴墓があるとされている。造られたのは古墳時代末期~奈良時代に亘るという。構造は古墳の横穴式石室に似ており、発祥は5世紀後半の九州北部地方にあるとされるが、現存しているものは何故か関東地方に多い。茨城県の近県では、埼玉県吉見町の「吉見百穴」(200基以上、国史跡)、栃木県宇都宮市の「長岡百穴」(52基)、千葉県長柄町の「長柄横穴群」(300基以上、国史跡)などが有名で、東京都、神奈川県にもある。何故群集して造られたか不明だが、「大化の改新」による所謂「薄葬令」(大化2年:646年)が関連しているらしい。つまり、これにより地方豪族の権威の象徴であった大きな古墳の造営は殆ど無くなり、簡素な横穴墓が増えたというのである。なお、「館出支群第32号墓」から銅製の方頭金具が付いた大刀が出土した。また、「館出支群第35号墓」からは、鞘尻金具や帯取り金具などの飾り金具が付いた刀子と蕨手刀が出土した。この刀子については、正倉院所蔵品との類似点が見られるという。
因みに、「十五郎穴」という名は、鎌倉時代初期の武士で、仇討で有名な曾我十郎祐成・五郎時致の兄弟がここに隠れ住んでいたとの伝説によるといい、「虎塚古墳」(前項)は十郎の愛人・虎御前の墓として築かれたといわれていたという。
茨城県教育委員会のHPから(十五郎穴)
ひたちなか市観光協会のHPから(十五郎穴:PDF)
写真1:「十五郎穴」。茨城県指定史跡。
写真2:同上
写真3:同上
写真4:同上