台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡)(だいわたりかんがいせきぐん(だいわたりかんがいせき・だいわたりはいじあと))。
場所:茨城県水戸市渡里町2975他。国道123号線と茨城県道113号線(真端水戸線)の交差点から東へ約240m。道路の北側(説明板がある。)。駐車場なし。
「台渡里官衙遺跡群」は、那珂川を見下す標高約30mの台地上にあり、「長者山地区」、「観音堂山地区」、「南方地区」の3つの地区に分かれ、このうち「観音堂山地区」と「南方地区」は古代寺院跡、「長者山地区」は、常陸国那賀郡の郡家に附属する正倉(院)跡とされる(国指定史跡)。「観音堂山地区」の古代寺院は7世紀後半~末頃の創建で、9世紀後半に焼失したとされ、「南方地区」はその古代寺院が場所を変えて建て直された跡という珍しい遺跡となっている。「観音堂山地区」の古代寺院跡は東西126m、南北156mの範囲に講堂、金堂、塔、中門、経蔵(または鐘楼)と想定できる礎石建物跡が6棟確認され、「南方地区」の古代寺院跡では東西220~240m、南北210mの範囲に塔及び金堂と想定できる礎石建物跡が2棟確認されて、9世紀後半頃から造営されたものの、途中で10世紀初頭には廃絶したらしいという。「台渡里廃寺」という名は現在の地名から称されているものだが、出土物として多量の瓦、仏像の鋳型、相輪の一部とみられるものなど仏教寺院の遺物が発見され、その瓦に「徳輪寺」、「仲寺」と記されたものがあったので、当時はそういう名で呼ばれていたらしい。特に「仲寺」というのは、おそらく古代「仲郡(那賀郡)」の付属寺院であることを示す通称であると考えられる。一方、「長者山地区」も、大小2つの溝跡によって二重に囲まれた東西約300m、南北約200mの範囲に総瓦葺の礎石建物が整然と並んでいたことがわかり、当初は寺院跡と考えられていたが、現在では郡家付属の正倉(院)(正税の穀物や財物を納める倉庫)であるとされている。「那賀郡家(郡衙)」跡自体ははっきりしないが、もともと中世の「長者屋敷」があったところと言われており、「一盛長者」の伝説地でもある。因みに、渡里町の西隣に堀町という町名があるが、「堀」というのは「こほり(郡)」が訛ったものではないか、ともいわれる。また、渡里町というのも、台地下の那珂川を渡る場所という意味で、台地下には古代官道の「河内駅家」(「常陸国風土記」に、那賀郡家の東北に河内駅家があるとの記述がある。)があったと考えられている(渡里町の対岸(左岸)に現在も上河内町、中河内町という遺称地がある。)。
なお、「一盛長者」の伝説は凡そ次の通り。「台渡里の長者山(別名:飯盛山)に、一盛(一守)長者が住んでいた。八幡太郎こと源義家が「後三年の役(後三年合戦)」(1083~1087年)のとき十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中、一盛長者の屋敷に立ち寄った。長者は酒宴を開き、三日三晩厚くもてなした。義家が奥州を平定しての帰路、再び長者屋敷に立ち寄ると、前にも増して豪華なもてなしを受けた。義家は、『このような恐ろしいほどの金持ちをこのままにしておいては、後々災いのもとになる。今のうちに滅ぼしてしまおう。』と考え、屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまった。この時、長者は秘密の抜け穴に逃れたが、追っ手に見つかり、出口の那珂川畔から家宝の金の鶏を抱いて川に身投げした。」
平安時代末~中世以降には各地に「長者」(単なる金持ちではなく、地域の権力者。豪族のイメージ)がいたという話が多いが、元は郡司や駅長の出身だったケースが多かったのだろうと思われる。逆にいうと、長者伝説のある場所の付近に郡家や駅家があったのではないかという手掛かりになるようである。
茨城県教育委員会のHPから(台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡))
水戸市のHPから(台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡))
写真1:「台渡里官衙遺跡群」の説明板。背後(北側)に見える八幡神社が遺跡の中心部。
写真2:「八幡神社」(通称:台渡里八幡神社)社号標。当神社は、元は同じ町内の「勝幢寺」内にあり、天保年間に「笠原神社」(水戸市文京)に移された後、昭和になってから当地に戻って来たという。
写真3:同上、鳥居
写真4:同上、一段高いところにある社殿。元は「廃寺」の塔址らしい。
写真5:「南方地区」の「台渡里廃寺跡」。八幡神社の向かい側(南)の狭い道路に入り、約90m。
写真6:同上。説明板以外は特に何もない。
写真7:「一盛長者伝説地」石碑。「長者山地区」はこの背後辺り。八幡神社前を北へ進み、交差点から東へ約300m。
場所:茨城県水戸市渡里町2975他。国道123号線と茨城県道113号線(真端水戸線)の交差点から東へ約240m。道路の北側(説明板がある。)。駐車場なし。
「台渡里官衙遺跡群」は、那珂川を見下す標高約30mの台地上にあり、「長者山地区」、「観音堂山地区」、「南方地区」の3つの地区に分かれ、このうち「観音堂山地区」と「南方地区」は古代寺院跡、「長者山地区」は、常陸国那賀郡の郡家に附属する正倉(院)跡とされる(国指定史跡)。「観音堂山地区」の古代寺院は7世紀後半~末頃の創建で、9世紀後半に焼失したとされ、「南方地区」はその古代寺院が場所を変えて建て直された跡という珍しい遺跡となっている。「観音堂山地区」の古代寺院跡は東西126m、南北156mの範囲に講堂、金堂、塔、中門、経蔵(または鐘楼)と想定できる礎石建物跡が6棟確認され、「南方地区」の古代寺院跡では東西220~240m、南北210mの範囲に塔及び金堂と想定できる礎石建物跡が2棟確認されて、9世紀後半頃から造営されたものの、途中で10世紀初頭には廃絶したらしいという。「台渡里廃寺」という名は現在の地名から称されているものだが、出土物として多量の瓦、仏像の鋳型、相輪の一部とみられるものなど仏教寺院の遺物が発見され、その瓦に「徳輪寺」、「仲寺」と記されたものがあったので、当時はそういう名で呼ばれていたらしい。特に「仲寺」というのは、おそらく古代「仲郡(那賀郡)」の付属寺院であることを示す通称であると考えられる。一方、「長者山地区」も、大小2つの溝跡によって二重に囲まれた東西約300m、南北約200mの範囲に総瓦葺の礎石建物が整然と並んでいたことがわかり、当初は寺院跡と考えられていたが、現在では郡家付属の正倉(院)(正税の穀物や財物を納める倉庫)であるとされている。「那賀郡家(郡衙)」跡自体ははっきりしないが、もともと中世の「長者屋敷」があったところと言われており、「一盛長者」の伝説地でもある。因みに、渡里町の西隣に堀町という町名があるが、「堀」というのは「こほり(郡)」が訛ったものではないか、ともいわれる。また、渡里町というのも、台地下の那珂川を渡る場所という意味で、台地下には古代官道の「河内駅家」(「常陸国風土記」に、那賀郡家の東北に河内駅家があるとの記述がある。)があったと考えられている(渡里町の対岸(左岸)に現在も上河内町、中河内町という遺称地がある。)。
なお、「一盛長者」の伝説は凡そ次の通り。「台渡里の長者山(別名:飯盛山)に、一盛(一守)長者が住んでいた。八幡太郎こと源義家が「後三年の役(後三年合戦)」(1083~1087年)のとき十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中、一盛長者の屋敷に立ち寄った。長者は酒宴を開き、三日三晩厚くもてなした。義家が奥州を平定しての帰路、再び長者屋敷に立ち寄ると、前にも増して豪華なもてなしを受けた。義家は、『このような恐ろしいほどの金持ちをこのままにしておいては、後々災いのもとになる。今のうちに滅ぼしてしまおう。』と考え、屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまった。この時、長者は秘密の抜け穴に逃れたが、追っ手に見つかり、出口の那珂川畔から家宝の金の鶏を抱いて川に身投げした。」
平安時代末~中世以降には各地に「長者」(単なる金持ちではなく、地域の権力者。豪族のイメージ)がいたという話が多いが、元は郡司や駅長の出身だったケースが多かったのだろうと思われる。逆にいうと、長者伝説のある場所の付近に郡家や駅家があったのではないかという手掛かりになるようである。
茨城県教育委員会のHPから(台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡))
水戸市のHPから(台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡))
写真1:「台渡里官衙遺跡群」の説明板。背後(北側)に見える八幡神社が遺跡の中心部。
写真2:「八幡神社」(通称:台渡里八幡神社)社号標。当神社は、元は同じ町内の「勝幢寺」内にあり、天保年間に「笠原神社」(水戸市文京)に移された後、昭和になってから当地に戻って来たという。
写真3:同上、鳥居
写真4:同上、一段高いところにある社殿。元は「廃寺」の塔址らしい。
写真5:「南方地区」の「台渡里廃寺跡」。八幡神社の向かい側(南)の狭い道路に入り、約90m。
写真6:同上。説明板以外は特に何もない。
写真7:「一盛長者伝説地」石碑。「長者山地区」はこの背後辺り。八幡神社前を北へ進み、交差点から東へ約300m。