大井神社(おおいじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市飯富町3475。 茨城県道51号線(水戸茂木線)「飯富特別支援学校入口」交差点の1つ東の交差点から北へ約850m。駐車場有り(向かい側の「飯富集落センター」に駐車可)。
社伝によれば、第10代崇神天皇の御世、皇子・豊木入日子命(トヨキイリヒコ)を奉じて建借馬命(タケカシマ)が下総国から当地に北上してきた。建借馬命は「長者山」に館を構え、乾の方角(北西)である現社地に天照皇大神を祀ったのが当神社の創始である。奈良時代に、有力な郡領の宇治部氏が、初代仲国国造である建借馬命を奉斎した、という。建借馬命はもと肥の国(現・佐賀県及び熊本県)出身の「意冨臣(おふのおみ)」で、祖は神武天皇の長子・神八井耳命(カムヤイミミ)である。そして、「大井」という社号は元々「意冨比(おほひ)」で、「飫冨」とも書いたのが「飯富」に変化したのが鎮座地の地名の由来となっている、という。ただし、江戸時代には「鹿島大明神」と称していたようで、現在の社号に復したのは寛政年間(1789~1801年)とのことであるとのこと。因みに、「長者山」というのは「一盛長者」の伝説地で、おそらく「那賀郡家」・「河内駅家」・「那賀郡付属寺院」があった現・茨城県水戸市渡里町の辺りのことと思われる(「台渡里官衙遺跡群」2018年3月9日記事参照)。また、現在の祭神は建借馬命であるが、現・茨城県水戸市愛宕町の「愛宕山古墳」(2018年3月16日記事)は建借馬命の墳墓であるという伝承がある。
さて、当神社は「延喜式神名帳」に登載された常陸国式内社「大井神社」に比定される神社であるが、他に現・茨城県笠間市にも「大井神社」があり(次項予定)、論社ということになる。どちらも決め手がある訳ではないが、鎮座地(古代那賀郡)の関係もあって、当神社の方がやや有力のようである。
茨城県神社庁のHPから(大井神社)
写真1:「大井神社」鳥居と社号標(「延喜式内 大井神社」)
写真2:拝殿
写真3:本殿。拝殿ともども彩色豊か。
写真4:境内の「元宮 意冨比神社」
写真5:同、「八方神」
写真6:同、「意冨比弁財天 巽神社」。由緒からすれば「大井」は泉とは無関係であるはずだが。
写真7:同、「女龍神」。これも、由緒から離れて、水の神様と思われていたのかもしれない。
場所:茨城県水戸市飯富町3475。 茨城県道51号線(水戸茂木線)「飯富特別支援学校入口」交差点の1つ東の交差点から北へ約850m。駐車場有り(向かい側の「飯富集落センター」に駐車可)。
社伝によれば、第10代崇神天皇の御世、皇子・豊木入日子命(トヨキイリヒコ)を奉じて建借馬命(タケカシマ)が下総国から当地に北上してきた。建借馬命は「長者山」に館を構え、乾の方角(北西)である現社地に天照皇大神を祀ったのが当神社の創始である。奈良時代に、有力な郡領の宇治部氏が、初代仲国国造である建借馬命を奉斎した、という。建借馬命はもと肥の国(現・佐賀県及び熊本県)出身の「意冨臣(おふのおみ)」で、祖は神武天皇の長子・神八井耳命(カムヤイミミ)である。そして、「大井」という社号は元々「意冨比(おほひ)」で、「飫冨」とも書いたのが「飯富」に変化したのが鎮座地の地名の由来となっている、という。ただし、江戸時代には「鹿島大明神」と称していたようで、現在の社号に復したのは寛政年間(1789~1801年)とのことであるとのこと。因みに、「長者山」というのは「一盛長者」の伝説地で、おそらく「那賀郡家」・「河内駅家」・「那賀郡付属寺院」があった現・茨城県水戸市渡里町の辺りのことと思われる(「台渡里官衙遺跡群」2018年3月9日記事参照)。また、現在の祭神は建借馬命であるが、現・茨城県水戸市愛宕町の「愛宕山古墳」(2018年3月16日記事)は建借馬命の墳墓であるという伝承がある。
さて、当神社は「延喜式神名帳」に登載された常陸国式内社「大井神社」に比定される神社であるが、他に現・茨城県笠間市にも「大井神社」があり(次項予定)、論社ということになる。どちらも決め手がある訳ではないが、鎮座地(古代那賀郡)の関係もあって、当神社の方がやや有力のようである。
茨城県神社庁のHPから(大井神社)
写真1:「大井神社」鳥居と社号標(「延喜式内 大井神社」)
写真2:拝殿
写真3:本殿。拝殿ともども彩色豊か。
写真4:境内の「元宮 意冨比神社」
写真5:同、「八方神」
写真6:同、「意冨比弁財天 巽神社」。由緒からすれば「大井」は泉とは無関係であるはずだが。
写真7:同、「女龍神」。これも、由緒から離れて、水の神様と思われていたのかもしれない。