神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

加波山神社(常陸国式外社・その11の1)

2021-01-02 23:57:56 | 神社
加波山神社(かばさんじんじゃ)。通称:加波山神社中宮、加波山神社中天宮。
場所:(桜川拝殿)茨城県桜川市真壁町長岡891。茨城県道41号線(つくば益子線)沿い、「樺穂小学校」北西角から北へ約80mのところの交差点(電柱に「加波山神社本宮→」の案内板がある。)を右折(東へ)、約900m。駐車場有り。
かつて「加波山大権現」と呼ばれた神社は現在、実質的に2社に分かれて対立していて、それぞれ里宮があり、「加波山」(標高709m)山上にもそれぞれ拝殿・本殿があって、とても分かりにくい状態になっている。まず、「加波山神社」から。
社伝によれば、第12代・景行天皇の時代に、日本武尊が東征に際して加波山に登拝したとき、神託により天御中主神、日の神、月の神の三神を祀り、社殿を建てたのを創祀とする。延暦20年(801年)には征夷大将軍・坂上田村麻呂が陸奥国平定の際に戦勝を祈願し、大同元年(806年)に社殿を寄進した。仁寿2年(852年)、別当の真言宗「加波山 文殊院」一世阿闍梨・真郎沙弥により「加波山大権現」と称するようになったとされる。その後、所謂「熊野三山」の祭神が加波山山頂に祀られたことから、「熊野三山」に倣い、「親宮」・「本宮」の2社が創建された。中世には神仏混淆が進んで「文殊院」の支配が強まり、山伏・修験者の真言密教「加波山三光流」の霊場・道場として栄えた。明治時代に入り、神仏判然令により「文殊院」を分離して「加波山神社」となり、明治6年に郷社に列せられた。明治11年に現・茨城県石岡市に里宮として「八郷拝殿」、同34年に現・桜川市に同じく「真壁拝殿」を建立し、加波山山頂の本殿・拝殿と合わせて3ヵ所で社務を行っているという。現在の主祭神は、国常立尊(クニトコタチ)・伊邪那岐尊(イザナギ)・伊邪那美尊(イザナミ)の3神で、他に加波山中に737柱の神を祀るとされる。
当神社について、「日本三代実録」貞観17年(876年)の記事に「常陸国の正六位上・三枝祇神に従五位を授けた。」にある「三枝祇神」に当たる、つまり式外社(国史見在社)に比定する説がある。当神社に「三枝神社」と記された棟札が残っているとされるが、それ以上のことは不明。式内社「筑波山神社」は疑いようもないが、現・茨城県笠間市の「飯綱神社」(愛宕神社奥社。2018年12月15日記事)を式内社「夷針神社」に比定すること、また当神社を式外社「三枝祇神」に比定することについては根拠が薄弱なような気がするのと、どちらも天狗=修験者の勢力の強いところだったので、その権威付けに使われたのではないか、という気がしてならない。


写真1:「加波山神社」八郷拝殿の鳥居(場所:茨城県石岡市大塚2399)。加波山の東、約3km(直線距離)。


写真2:同上、社殿。


写真3:同上、境内社「加波山愛宕神社」


写真4:「加波山普明神社」鳥居と社号標。「一合目」という石柱もある。


写真5:同上、社殿。「加波山神社」桜川拝殿に隣接。これも拝殿で、本殿は加波山の中腹にある。「加波山神社」桜川拝殿が完成する前は、こちらが里宮の役割を果たしていた。祭神は、明治時代の仙人とされる国安普明命。


写真6:「加波山神社」桜川拝殿の鳥居。


写真7:同上、社殿。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする