高野のお化け石(こうやのおばけいし)。成田不動明王霊石碑。
場所:茨城県守谷市高野1366(「仲坪公民館」の住所)。「大雄山 海禅寺」(前項)境内入口の北東約200mのところ(「守谷市消防団第九分団 消防機械器具置場」がある。また、下の写真1の案内板がある。)から南東に入って直進、約50mの突き当り。駐車スペース有り。
「高野のお化け石」は、「成田山」という文字と不動明王像の線刻などがある石碑で、昭和50年7月、地元の小学生が「石碑に人の顔が映っている」と言い出したのをきっかけに、近所の人々が見に行くようになった。その噂が広がり、週刊誌やテレビなどでも大きく取り上げられるようになって、全国から見物客が押し寄せる騒ぎになった。付近の畑や空き地が俄か駐車場になったり、露店が出たりなどして、大渋滞が発生した。肝心の「人の顔」については、見える人・見えない人がいる中で、見える人も「死んだおじいちゃん」、「白い着物を着た女性と子供」、「猫(?)」など様々で、中には「平将門の亡霊」という人もいたらしい。因みに、当時の「広報もりや」によれば、立正佼成会取手教会が昭和50年1月から毎月、将門の命日とされる22日に追善供養を行っていて、教会長が「供養を半年間続けたら何らかの顕示があるだろう」という予言をしていたという。
さて、当時、見物客の中には石碑に御賽銭をあげる人がいて、大分貯まったある時、御賽銭箱ごと盗まれてしまった。ところが、盗まれて一週間ほど経った頃、御賽銭を返しに来た人がいた。その人の話によると、御賽銭を盗んだ人がその後バイクで交通事故を起こし、「これはお化け石の祟りだろうから、代わりに御賽銭を返して来てくれ」と頼まれたのだと言ったという。そのようなこともあって、お盆の8月になると、ますます見物客は増え、「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)から僧侶が来て祈祷して行くという騒ぎにまでなった。しかし、秋風が吹く頃になると訪れる人もめっきり少なくなり、心無い誰かがスプレーで落書きして以来、人の顔は見えなくなってしまったという。
この石碑のある場所は、平将門所縁の「大雄山 海禅寺」(前項)本堂の裏手に当たる。「成田山 新勝寺」の不動明王といえば、将門調伏のために京都から運ばれ、21日間の祈祷の末、将門を敗死させたというもので、相性が悪い。何故、ここに成田山不動明王の石碑を建てたか不明だが、将門と関係があるなら、昭和50年になってから亡霊が現れるというのも不思議である。その頃の世相として、昭和48年に「ノストラダムスの大予言」(五島勉・著)と「日本沈没」(小松左京・著)が刊行され、オカルト・ブームあるいは終末論的な不安の時代がもたらされたということで、これとの関連を指摘する説もあるが、どうだろうか。
蛇足:「怨霊地図 関東一都六県」(宝島社)というムックには、この石碑も心霊スポットとして採り上げられているが、石碑の写真にはモザイクが掛けられ、「近隣の方に迷惑をかけることを考慮し、地図の掲載を省略いたします。」と書いてある。しかし、守谷市のHPには「守谷の歴史・文化」の小中学生向けコンテンツとして「守谷の七不思議」の1つとなっていて、場所も明示されている。
守谷市のHPから(高野のお化け石)
写真1:「成田不動明王霊石碑 入口」の案内板。手作り感一杯。
写真2:「高野のお化け石(成田不動明王霊石碑)」
写真3:同上。高さ150cm、幅107cm、厚さ29cm。筑波郡福岡村(現・つくばみらい市)の弘明講の行者・卓雄により明治31年に建立されたものという。
写真4:隣にある「日光大権現」社(というか、本来は「日光大権現」(日光神社)の境内に石碑、公民館があるというべきだろう。)。通称:日光様。文政9年(1826年)創建で、祭神は徳川家康公。
写真5:青面金剛などの石碑もある。
場所:茨城県守谷市高野1366(「仲坪公民館」の住所)。「大雄山 海禅寺」(前項)境内入口の北東約200mのところ(「守谷市消防団第九分団 消防機械器具置場」がある。また、下の写真1の案内板がある。)から南東に入って直進、約50mの突き当り。駐車スペース有り。
「高野のお化け石」は、「成田山」という文字と不動明王像の線刻などがある石碑で、昭和50年7月、地元の小学生が「石碑に人の顔が映っている」と言い出したのをきっかけに、近所の人々が見に行くようになった。その噂が広がり、週刊誌やテレビなどでも大きく取り上げられるようになって、全国から見物客が押し寄せる騒ぎになった。付近の畑や空き地が俄か駐車場になったり、露店が出たりなどして、大渋滞が発生した。肝心の「人の顔」については、見える人・見えない人がいる中で、見える人も「死んだおじいちゃん」、「白い着物を着た女性と子供」、「猫(?)」など様々で、中には「平将門の亡霊」という人もいたらしい。因みに、当時の「広報もりや」によれば、立正佼成会取手教会が昭和50年1月から毎月、将門の命日とされる22日に追善供養を行っていて、教会長が「供養を半年間続けたら何らかの顕示があるだろう」という予言をしていたという。
さて、当時、見物客の中には石碑に御賽銭をあげる人がいて、大分貯まったある時、御賽銭箱ごと盗まれてしまった。ところが、盗まれて一週間ほど経った頃、御賽銭を返しに来た人がいた。その人の話によると、御賽銭を盗んだ人がその後バイクで交通事故を起こし、「これはお化け石の祟りだろうから、代わりに御賽銭を返して来てくれ」と頼まれたのだと言ったという。そのようなこともあって、お盆の8月になると、ますます見物客は増え、「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)から僧侶が来て祈祷して行くという騒ぎにまでなった。しかし、秋風が吹く頃になると訪れる人もめっきり少なくなり、心無い誰かがスプレーで落書きして以来、人の顔は見えなくなってしまったという。
この石碑のある場所は、平将門所縁の「大雄山 海禅寺」(前項)本堂の裏手に当たる。「成田山 新勝寺」の不動明王といえば、将門調伏のために京都から運ばれ、21日間の祈祷の末、将門を敗死させたというもので、相性が悪い。何故、ここに成田山不動明王の石碑を建てたか不明だが、将門と関係があるなら、昭和50年になってから亡霊が現れるというのも不思議である。その頃の世相として、昭和48年に「ノストラダムスの大予言」(五島勉・著)と「日本沈没」(小松左京・著)が刊行され、オカルト・ブームあるいは終末論的な不安の時代がもたらされたということで、これとの関連を指摘する説もあるが、どうだろうか。
蛇足:「怨霊地図 関東一都六県」(宝島社)というムックには、この石碑も心霊スポットとして採り上げられているが、石碑の写真にはモザイクが掛けられ、「近隣の方に迷惑をかけることを考慮し、地図の掲載を省略いたします。」と書いてある。しかし、守谷市のHPには「守谷の歴史・文化」の小中学生向けコンテンツとして「守谷の七不思議」の1つとなっていて、場所も明示されている。
守谷市のHPから(高野のお化け石)
写真1:「成田不動明王霊石碑 入口」の案内板。手作り感一杯。
写真2:「高野のお化け石(成田不動明王霊石碑)」
写真3:同上。高さ150cm、幅107cm、厚さ29cm。筑波郡福岡村(現・つくばみらい市)の弘明講の行者・卓雄により明治31年に建立されたものという。
写真4:隣にある「日光大権現」社(というか、本来は「日光大権現」(日光神社)の境内に石碑、公民館があるというべきだろう。)。通称:日光様。文政9年(1826年)創建で、祭神は徳川家康公。
写真5:青面金剛などの石碑もある。