米井山 無量寿院 龍禅寺(べいせいざん むりょうじゅいん りゅうぜんじ)。
場所:茨城県取手市米ノ井467。関東鉄道常総線「稲戸井」駅の南側(なお、「稲戸井」駅は北側にしか出入口がない。)の国道294号線沿い(自動車販売店「ネッツトヨタ(株)マイネ取手」向かい)に「桔梗塚」があり、その東側の信号機があるところから南西へ入る。突き当りを左折(南東へ)、国道から約400m。駐車場有り。ただし、途中は住宅地で、道路が狭いので、注意。
寺伝等によれば、延長2年(924年)、伝誉大阿闍梨が「三仏堂」を道場として開き、承平7年(937年)には平将門が武運長久を祈願して参詣し、仁王門と鐘楼を寄進して盛り立てたという(将門が創建したとの説もある。)。このとき、「三仏堂」前の井戸から米が噴出し、これを吉祥として将門が大変喜んだという伝説があって、山号は(当地の地名も)これに由来するとされる。将門の死後に荒廃したが、建久3年(1192年)に源頼朝が千葉常胤(桓武平氏良文流千葉氏の一族で、千葉氏中興の祖)に命じて修復したという。江戸時代には19石3斗の朱印地があった。現在は天台宗で、茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺。本尊は阿弥陀如来。
境内にある「三仏堂」は、釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の3体の仏像が安置されているため、その名がある。桁行三間・梁間四間の三間堂で、左右と背面に裳階(もこし)が付いているが、三方に裳階が付く形式の建物は他に例を見ないという。屋根は寄棟造で茅葺。内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には禅宗様の須弥壇が置かれて、三仏が安置されている。なお、不動明王立像もあるが、この像の顔は削られている。将門を調伏したのが「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)の不動明王だ、ということで嫌われたようである。昭和60~61年に解体修理が行なわれて創建当初の姿に復原されたが、このとき、永禄12年(1569年)銘のある木札が発見されたことと、建物の様式等からみて16世紀前半の建立と推定されている。取手市唯一の国指定重要文化財。
なお、将門が「三仏堂」で生まれた、という伝説もある。将門の母は紅龍の化身で、将門を産むとき、「三仏堂」に21日間籠った。この間、扉を開けてはならないと伝えていたが、父の良持が20日目に中を覗いてしまった。すると、中に大蛇がいて、火を噴き、赤子をぺろぺろと舐めていた。21日間舐めると全身が鉄のようになって矢を通さないようになるのだが、1日足りずに、こめかみ(目と耳の間。ボクシング等でいう「テンプル」で、急所の一つ)は生身のままとなり、後にこめかみを射られて死ぬことになったというのである。当然、これは後世の作り事だろうが、将門が当地付近で出生したという説は根強く、それはまた別項で。
また、国道からの入口付近に「桔梗塚」がある。将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)は、将門が戦死したことを聞いて、当地まで逃げてきたが、ここで捕まり、殺された。その菩提を弔うためのものという。当地では、桔梗(キキョウ)は生えても、花が咲かないという伝説がある。これは、キキョウの根は薬用になるが、花を咲かせると薬効が落ちるとして、花が咲く前に摘み取ってしまうことによるものとの説がある(因みに、キキョウの根はサポニンを含み、現在でも去痰薬等に用いられる。)。当地以外でも、桔梗姫の伝説があるところでは同様の話になっているが、桔梗姫の素性は様々に伝えられている。大別すると、①藤原秀郷が送り込んだ美女(秀郷の妹とするものもある。)で、将門の弱点を秀郷に教えた、というもの。この場合、そうした卑怯な策略が露見するのを恐れて、秀郷が桔梗姫を殺すことになり、キキョウが咲かないのは、将門の恨みによる。②桔梗姫も将門を愛しており、将門の死により、自らも悲劇の死を遂げるというもので、この場合、キキョウが咲かないのは桔梗姫の恨みによるもの、ということになる。当地周辺では、②の話の方が主流であるようだ。
茨城県教育委員会のHPから(竜禅寺三仏堂)
写真1:「龍禅寺」参道入口。入って、山門前の右手に駐車場が有る。
写真2:山門。脚に比べて、屋根が重厚な気が。
写真3:本堂。本堂前(写真向かって右)の木は金木犀(キンモクセイ)で、高さ15m、幹回り(株立ちの合計)5.79m、樹齢約200年という巨樹で、幹回りでは日本一クラスとされる。
写真4:鐘楼
写真5:本堂前の弘法大師堂。「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第79番札所。
写真6:「三仏堂」。ちょっと映えないアングルだが、「三仏堂」前にも駐車スペースがあり、正面から写真が撮りづらいところに駐車している車があったため。
写真7:「三仏堂」前の大師堂。「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第47番札所。
写真8:「桔梗塚」。当寺院が管理している模様。
場所:茨城県取手市米ノ井467。関東鉄道常総線「稲戸井」駅の南側(なお、「稲戸井」駅は北側にしか出入口がない。)の国道294号線沿い(自動車販売店「ネッツトヨタ(株)マイネ取手」向かい)に「桔梗塚」があり、その東側の信号機があるところから南西へ入る。突き当りを左折(南東へ)、国道から約400m。駐車場有り。ただし、途中は住宅地で、道路が狭いので、注意。
寺伝等によれば、延長2年(924年)、伝誉大阿闍梨が「三仏堂」を道場として開き、承平7年(937年)には平将門が武運長久を祈願して参詣し、仁王門と鐘楼を寄進して盛り立てたという(将門が創建したとの説もある。)。このとき、「三仏堂」前の井戸から米が噴出し、これを吉祥として将門が大変喜んだという伝説があって、山号は(当地の地名も)これに由来するとされる。将門の死後に荒廃したが、建久3年(1192年)に源頼朝が千葉常胤(桓武平氏良文流千葉氏の一族で、千葉氏中興の祖)に命じて修復したという。江戸時代には19石3斗の朱印地があった。現在は天台宗で、茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺。本尊は阿弥陀如来。
境内にある「三仏堂」は、釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の3体の仏像が安置されているため、その名がある。桁行三間・梁間四間の三間堂で、左右と背面に裳階(もこし)が付いているが、三方に裳階が付く形式の建物は他に例を見ないという。屋根は寄棟造で茅葺。内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には禅宗様の須弥壇が置かれて、三仏が安置されている。なお、不動明王立像もあるが、この像の顔は削られている。将門を調伏したのが「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)の不動明王だ、ということで嫌われたようである。昭和60~61年に解体修理が行なわれて創建当初の姿に復原されたが、このとき、永禄12年(1569年)銘のある木札が発見されたことと、建物の様式等からみて16世紀前半の建立と推定されている。取手市唯一の国指定重要文化財。
なお、将門が「三仏堂」で生まれた、という伝説もある。将門の母は紅龍の化身で、将門を産むとき、「三仏堂」に21日間籠った。この間、扉を開けてはならないと伝えていたが、父の良持が20日目に中を覗いてしまった。すると、中に大蛇がいて、火を噴き、赤子をぺろぺろと舐めていた。21日間舐めると全身が鉄のようになって矢を通さないようになるのだが、1日足りずに、こめかみ(目と耳の間。ボクシング等でいう「テンプル」で、急所の一つ)は生身のままとなり、後にこめかみを射られて死ぬことになったというのである。当然、これは後世の作り事だろうが、将門が当地付近で出生したという説は根強く、それはまた別項で。
また、国道からの入口付近に「桔梗塚」がある。将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)は、将門が戦死したことを聞いて、当地まで逃げてきたが、ここで捕まり、殺された。その菩提を弔うためのものという。当地では、桔梗(キキョウ)は生えても、花が咲かないという伝説がある。これは、キキョウの根は薬用になるが、花を咲かせると薬効が落ちるとして、花が咲く前に摘み取ってしまうことによるものとの説がある(因みに、キキョウの根はサポニンを含み、現在でも去痰薬等に用いられる。)。当地以外でも、桔梗姫の伝説があるところでは同様の話になっているが、桔梗姫の素性は様々に伝えられている。大別すると、①藤原秀郷が送り込んだ美女(秀郷の妹とするものもある。)で、将門の弱点を秀郷に教えた、というもの。この場合、そうした卑怯な策略が露見するのを恐れて、秀郷が桔梗姫を殺すことになり、キキョウが咲かないのは、将門の恨みによる。②桔梗姫も将門を愛しており、将門の死により、自らも悲劇の死を遂げるというもので、この場合、キキョウが咲かないのは桔梗姫の恨みによるもの、ということになる。当地周辺では、②の話の方が主流であるようだ。
茨城県教育委員会のHPから(竜禅寺三仏堂)
写真1:「龍禅寺」参道入口。入って、山門前の右手に駐車場が有る。
写真2:山門。脚に比べて、屋根が重厚な気が。
写真3:本堂。本堂前(写真向かって右)の木は金木犀(キンモクセイ)で、高さ15m、幹回り(株立ちの合計)5.79m、樹齢約200年という巨樹で、幹回りでは日本一クラスとされる。
写真4:鐘楼
写真5:本堂前の弘法大師堂。「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第79番札所。
写真6:「三仏堂」。ちょっと映えないアングルだが、「三仏堂」前にも駐車スペースがあり、正面から写真が撮りづらいところに駐車している車があったため。
写真7:「三仏堂」前の大師堂。「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第47番札所。
写真8:「桔梗塚」。当寺院が管理している模様。