化け物石(ばけものいし)。
場所:茨城県龍ケ崎市貝原塚町2228ー1(「金剛院」の住所)。茨城県道34号線(竜ヶ崎阿見線)と同243号線(八代庄兵衛新田線)の「貝原塚」交差点から34号線を北東へ約500mのところ(「金剛院」の寺号標がある。)で左折(北西へ)、約120m。駐車場有り。
天台宗「金光山 金剛院」境内に、弘長4年(1264年)銘の所謂「下総板碑」がある。高さ約150cm、巾約50cmの大きさで、材質は筑波山産出の黒雲母片岩とみられる。表面には、上部に二条線・天蓋・種子・蓮座偈文と続き、中央の梵字の種子は阿弥陀如来と脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩が刻されている。また、願文として「佛説観無量寿経」下巻の偈の一節、「其の仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自到不退転」(その仏の本願力により、名を聞きて往生せんと欲せば、皆ことごとく彼の国に到りて、自ずから不退転に到らん)と記されているとのこと。龍ケ崎市指定文化財(考古資料)。
この板碑には「化け物石」という別名がある。明治25年頃、この板碑は水路の石橋として使われていたが、その辺りに火の玉が出るなど奇怪なことが続いたので、村人らは「化け物石」と恐れ、現在の「金剛院」境内に移した(当初の建立場所は不明)という。板碑は、亡くなった人々の供養や、生前に死後の冥福を願って建立されたものなので、それを踏みつけると祟りがあるということなのだろう。
因みに、「金剛院」参道入口の西側にある旧村社「(貝原塚)八坂神社」は、康平6年(1063年)の創建と伝えられている。源頼義が奥州遠征の帰途に当地を通った折り、 村人が疫病で苦しんでいたため、山城国「八坂大神」(現・京都市東山区「八坂神社」)から分霊を勧請して祀ったところ、たちまち疫病が治まったとされる。また、この「八坂神社」~「金剛院」を含め、「金剛院」背後(北側)の「城山」という台地に中世城郭「貝原塚城」があったらしい。「八坂神社」から「金剛院」に向かうと、いったんかなり下って、また上る形になる。この低いところはかつて城郭の空堀だったという。
写真1:「八坂神社」鳥居
写真2:同上、社殿。祭神:建速須佐之男命。なお、「龍ケ崎鎮守」と称する現・龍ケ崎市上町「八坂神社」は当神社からの分社。
写真3:「天台宗 金剛院」寺号標
写真4:同上、参道石段
写真5:同上、本堂
写真6:同上、石仏など
写真7:同上、「化け物石」(板碑)
場所:茨城県龍ケ崎市貝原塚町2228ー1(「金剛院」の住所)。茨城県道34号線(竜ヶ崎阿見線)と同243号線(八代庄兵衛新田線)の「貝原塚」交差点から34号線を北東へ約500mのところ(「金剛院」の寺号標がある。)で左折(北西へ)、約120m。駐車場有り。
天台宗「金光山 金剛院」境内に、弘長4年(1264年)銘の所謂「下総板碑」がある。高さ約150cm、巾約50cmの大きさで、材質は筑波山産出の黒雲母片岩とみられる。表面には、上部に二条線・天蓋・種子・蓮座偈文と続き、中央の梵字の種子は阿弥陀如来と脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩が刻されている。また、願文として「佛説観無量寿経」下巻の偈の一節、「其の仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自到不退転」(その仏の本願力により、名を聞きて往生せんと欲せば、皆ことごとく彼の国に到りて、自ずから不退転に到らん)と記されているとのこと。龍ケ崎市指定文化財(考古資料)。
この板碑には「化け物石」という別名がある。明治25年頃、この板碑は水路の石橋として使われていたが、その辺りに火の玉が出るなど奇怪なことが続いたので、村人らは「化け物石」と恐れ、現在の「金剛院」境内に移した(当初の建立場所は不明)という。板碑は、亡くなった人々の供養や、生前に死後の冥福を願って建立されたものなので、それを踏みつけると祟りがあるということなのだろう。
因みに、「金剛院」参道入口の西側にある旧村社「(貝原塚)八坂神社」は、康平6年(1063年)の創建と伝えられている。源頼義が奥州遠征の帰途に当地を通った折り、 村人が疫病で苦しんでいたため、山城国「八坂大神」(現・京都市東山区「八坂神社」)から分霊を勧請して祀ったところ、たちまち疫病が治まったとされる。また、この「八坂神社」~「金剛院」を含め、「金剛院」背後(北側)の「城山」という台地に中世城郭「貝原塚城」があったらしい。「八坂神社」から「金剛院」に向かうと、いったんかなり下って、また上る形になる。この低いところはかつて城郭の空堀だったという。
写真1:「八坂神社」鳥居
写真2:同上、社殿。祭神:建速須佐之男命。なお、「龍ケ崎鎮守」と称する現・龍ケ崎市上町「八坂神社」は当神社からの分社。
写真3:「天台宗 金剛院」寺号標
写真4:同上、参道石段
写真5:同上、本堂
写真6:同上、石仏など
写真7:同上、「化け物石」(板碑)