羽黒山 今泉院 大聖寺(はぐろさん こんせんいん だいしょうじ)。通称:土浦大師不動尊。
場所:茨城県土浦市永国203。国道354号線「東小学校下」交差点から北東へ約220m。駐車場あり(境内入口から山門横に進んだところ。)。
寺伝によれば、長徳元年(995年)、京都「醍醐寺」の成尊僧都により「今泉寺」として現在地の東、約500mのところに創建された。応安7年(1374年)、当地を治めていた小田城主・小田孝朝が、城の守りとして定めた「小田領常陸四箇寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)」の1寺となり、現・茨城県つくば市西平塚に移されたが、その際に「大聖寺」と改めた。小田家滅亡前の大永6年(1526年)には現在地に戻り、貞享2年(1685年)には堂宇を焼失したが、同年、土浦城主・松平信興が山門を寄進するなどし、貞享4年(1687年)には再建された。延享2年(1745年)には門末合わせて160ヶ寺を擁する檀林所格の本寺として大名と同格の格式を持つ寺院として栄え、伝法灌頂道場も開設した。しかし、文久3年(1863年)には再び本堂など伽藍が焼失、そのまま明治維新を迎え、ようやく再建されたのは昭和60年になってからという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大聖不動明王。北関東三十六不動尊霊場第31番札所となっている。なお、本尊については、運慶作とされる不動明王を火災で失って以来、大日如来を本尊としてきたが、新本堂落慶を機に再び不動明王(室町時代の作とされる。土浦市指定文化財)を本尊に戻し、大日如来は背後の宮殿に納めて「奥本尊」とした(因みに、不動明王は大日如来の化身とされる。)。この大日如来(胎蔵界)は、解体修復の際に頭部裏面の墨書から江戸幕府第5代将軍徳川綱吉のために惣検校・三嶋安一によって造立されたものであることが判明したという。
さて、当地(土浦市永国)は、元は信太郡永国村で、花室川左岸(北岸)の微高地に当たり、縄文時代~古墳時代頃の集落跡が多く発見されている。伝承では、日本武尊が東国平定のためにやって来たとき、上総国に渡るときに荒れた海に身を投げた妻の弟橘媛の霊を慰めるため、現在の「大聖寺」付近に「吾妻神社」を建立し、大和から従ってきた役人に「瑞穂の国として永く治めるように」と命じたというのが「永国」という地名の由来とされる。明治22年には、永国村は中村・右籾村等と合併して信太郡東村の一部となったが、村名は「吾妻神社」に因んで東村と名付けられた。その後、「吾妻神社」は「日先神社」(2022年3月5日記事)に合祀されたという。「日先神社」のある現・土浦市右籾から北西に少し進めば現・国道6号線(水戸街道)に接続し、そこで方向転換して北東へ向かうと、花室川手前で国道6号線と同354号線に分かれるが、国道354号線はほぼ直線的に現・土浦市街地に入っていく。古代官道が通っていた場所に日本武尊の伝説が残るケースが多々あり、あるいは当地付近を古代東海道が通っていた可能性があるのかもしれない。
「土浦大師不動尊 大聖寺」のHP
写真1:「大聖寺」参道入口、寺号標(「常陸四箇寺 大聖寺」)。自動車も、ここから中へ。
写真2:境内入口、寺号標(「土浦大師不動尊 羽黒山大聖寺」)
写真3:山門。「参詣者下車処」とあるが、第一駐車場は向かって右へ、第二駐車場は左で進む。第二駐車場の方が、寺務所・本堂に近い。山門は貞享2年(1685年)、土浦城主・松平信興が寄進したものという。土浦市指定文化財。
写真4:大師堂。山門の向かって左側の小高いところにある。
写真5:四脚門。応安2年(1369年)建立のものとされ、これも土浦市指定文化財。
写真6:「大杉殿(大杉神社)」。現・茨城県稲敷市の「大杉神社」の分祠。なお、境内には他に、稲荷祠と弁財天祠がある。
写真7:「大聖寺のカサマツ(笠松)」。土浦市指定名木。
写真8:水掛不動尊。本尊のお前立ちとして、まずこの石仏に水をかけて祈願し、その後、本堂に参詣するとよいとのこと。
写真9:本堂(大聖殿)
写真10:護摩堂。文久3年(1863年)に本堂を焼失したときに、古材を使って仮本堂として建立されたもの。昭和60年に現・本堂が完成した後、護摩堂となった。
写真11:平和観音(上)と羽黒権現(台座)。本堂の東、境内で最も高いところ(「羽黒山」と称する。)にある正観世音菩薩(羽黒権現の本地仏)のブロンズ像と、当寺院の鎮守・羽黒権現(石造)。
場所:茨城県土浦市永国203。国道354号線「東小学校下」交差点から北東へ約220m。駐車場あり(境内入口から山門横に進んだところ。)。
寺伝によれば、長徳元年(995年)、京都「醍醐寺」の成尊僧都により「今泉寺」として現在地の東、約500mのところに創建された。応安7年(1374年)、当地を治めていた小田城主・小田孝朝が、城の守りとして定めた「小田領常陸四箇寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)」の1寺となり、現・茨城県つくば市西平塚に移されたが、その際に「大聖寺」と改めた。小田家滅亡前の大永6年(1526年)には現在地に戻り、貞享2年(1685年)には堂宇を焼失したが、同年、土浦城主・松平信興が山門を寄進するなどし、貞享4年(1687年)には再建された。延享2年(1745年)には門末合わせて160ヶ寺を擁する檀林所格の本寺として大名と同格の格式を持つ寺院として栄え、伝法灌頂道場も開設した。しかし、文久3年(1863年)には再び本堂など伽藍が焼失、そのまま明治維新を迎え、ようやく再建されたのは昭和60年になってからという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大聖不動明王。北関東三十六不動尊霊場第31番札所となっている。なお、本尊については、運慶作とされる不動明王を火災で失って以来、大日如来を本尊としてきたが、新本堂落慶を機に再び不動明王(室町時代の作とされる。土浦市指定文化財)を本尊に戻し、大日如来は背後の宮殿に納めて「奥本尊」とした(因みに、不動明王は大日如来の化身とされる。)。この大日如来(胎蔵界)は、解体修復の際に頭部裏面の墨書から江戸幕府第5代将軍徳川綱吉のために惣検校・三嶋安一によって造立されたものであることが判明したという。
さて、当地(土浦市永国)は、元は信太郡永国村で、花室川左岸(北岸)の微高地に当たり、縄文時代~古墳時代頃の集落跡が多く発見されている。伝承では、日本武尊が東国平定のためにやって来たとき、上総国に渡るときに荒れた海に身を投げた妻の弟橘媛の霊を慰めるため、現在の「大聖寺」付近に「吾妻神社」を建立し、大和から従ってきた役人に「瑞穂の国として永く治めるように」と命じたというのが「永国」という地名の由来とされる。明治22年には、永国村は中村・右籾村等と合併して信太郡東村の一部となったが、村名は「吾妻神社」に因んで東村と名付けられた。その後、「吾妻神社」は「日先神社」(2022年3月5日記事)に合祀されたという。「日先神社」のある現・土浦市右籾から北西に少し進めば現・国道6号線(水戸街道)に接続し、そこで方向転換して北東へ向かうと、花室川手前で国道6号線と同354号線に分かれるが、国道354号線はほぼ直線的に現・土浦市街地に入っていく。古代官道が通っていた場所に日本武尊の伝説が残るケースが多々あり、あるいは当地付近を古代東海道が通っていた可能性があるのかもしれない。
「土浦大師不動尊 大聖寺」のHP
写真1:「大聖寺」参道入口、寺号標(「常陸四箇寺 大聖寺」)。自動車も、ここから中へ。
写真2:境内入口、寺号標(「土浦大師不動尊 羽黒山大聖寺」)
写真3:山門。「参詣者下車処」とあるが、第一駐車場は向かって右へ、第二駐車場は左で進む。第二駐車場の方が、寺務所・本堂に近い。山門は貞享2年(1685年)、土浦城主・松平信興が寄進したものという。土浦市指定文化財。
写真4:大師堂。山門の向かって左側の小高いところにある。
写真5:四脚門。応安2年(1369年)建立のものとされ、これも土浦市指定文化財。
写真6:「大杉殿(大杉神社)」。現・茨城県稲敷市の「大杉神社」の分祠。なお、境内には他に、稲荷祠と弁財天祠がある。
写真7:「大聖寺のカサマツ(笠松)」。土浦市指定名木。
写真8:水掛不動尊。本尊のお前立ちとして、まずこの石仏に水をかけて祈願し、その後、本堂に参詣するとよいとのこと。
写真9:本堂(大聖殿)
写真10:護摩堂。文久3年(1863年)に本堂を焼失したときに、古材を使って仮本堂として建立されたもの。昭和60年に現・本堂が完成した後、護摩堂となった。
写真11:平和観音(上)と羽黒権現(台座)。本堂の東、境内で最も高いところ(「羽黒山」と称する。)にある正観世音菩薩(羽黒権現の本地仏)のブロンズ像と、当寺院の鎮守・羽黒権現(石造)。