ポメラを置いてきた日には、ノートが開かれることになる。
ノートとガジェットは併用するともっとよくなるはず。それぞれに長所があるのだ。ノートは同期なんてしなくていい。電源やWi-Fiがなくても平気。つまりは環境を選ばない。チープなものには安心感がある。少しくらいコーヒーをこぼしてもいい。落としても壊れない。静かで他人の迷惑にもなりにくい。ペンを走らせる音など、落ち葉がすれて囁くくらいのものだ。
風邪を引きずってコーヒーを注文する声に重みがある。新しい自分が現れた。このままでもいい。きっとそれは愚かな考えだろう。
ポスターの裏地に逆さまのチキン。硝子を覆うものが何もなかったら、外の世界はもっと大きく見えるのに。この世界を支配しているのは広告なのか。バス停にかける腕組みの男。次の試合に向けて戦術を練っているのか。どこかのチームの監督、あるいはコーチだろう。
・
店内において以下の行為を禁止致します。
すべてはお客様が快適に過ごされるためだと書いてある。眠ってもいけないし、トランプやカードゲームの類は禁止だ。目につくような遊び方をしてはいけないのだ。逆にノートやテキストを広げて、熱心に仕事や勉強に打ち込むことも禁止だ。娯楽も仕事も勉強もいけない。何もしないのはよいが、眠るのは駄目だ。ある程度はそういうことが許容されるタイプの店もあるが、建前上は禁止というカフェも多い。とは言え、やはりそれは程度の問題だ。テーブルの上でカードを切った瞬間に追い出されるわけではない。少しノートを開いたくらいで咎められもしない。コーヒーを飲むという本分を上回る生活の拠点をテーブルに置くくらいのことがなければ、実際には何も起こるはずもない。
遊んでいるのか、働いているのか。一目でそれは見分けがつくものだろうか。フル充電したところからどれだけ持つか? 家電量販店でノートを選んでいた時、それは使用状況によると店員は答えた。印象的だったのはその次の言葉だ。
「ほとんどの時間は止まっているのです」
人間はノートを開いて仕事をしている時でも、フルに動いてはいないというのが、彼の持論だった。首をひねったり、ため息をついたり、遠くを見つめたり……。そうした時間が、ノートと向き合う大部分を占めているのだ。当然、その間のノートはさほど電力を失わないというわけだ。なるほどそういうものかと妙に感心したことを覚えている。
あのメッシだって止まっている時は止まっているではないか。ずっと動いてばかりではない。でもその時がやってきたら目覚ましい動きをして、決定的な違いを生み出してみせる。メッシはそれまで遊んでいたのか? 遊んでいるようにも見えるし、見せかけていたとも言える。止まっている時間も、先を見据えて準備していたとすれば、偉大な静止と解釈することもできるだろう。
できない上司に限って動き詰めることを要求するが、それは物事の効率というものをまるで理解していないためだろう。ストップ&ゴー、パス&ゴー。課題をクリアし壁を越えていくためには、緩急をつけることが重要だ。人はロボットとは違い、傷ついたり疲れたりするものだ。同じ人でありながらそこを考えられない人が多いのも、悲しい現実だ。
この人たちは何を求めてカフェにやってくるのだろうか。時間を潰すためか。談笑するためか。くつろぎを求めてか。コーヒーが生き甲斐なのか。何の目的もなくふらふらしながらたどり着いたのか。遊んでいるのか、遊んでいないのか、傍目にはわからない。あと少し。カップに残るコーヒーを飲みきらなければ……。だけど、僕はもう眠りたかった。(飲まなきゃ)(このまま眠ってしまいたい)2つのテーマの間で揺れている。その感じは、悪くなかった。
・
「いつまで遊んでいるの?」(いつになったらまともに働くの)
あなたはそうやって誰かに責められたりしたことがあるだろうか。
将棋には「遊び駒」という駒(状態)があり、形勢の足を引っ張る要因にもなる。
「遊び駒は作らない方がよい?」
最初から最後まですべての駒が働いて勝つ。そんなことが可能だろうか。大山十五世名人の振り飛車では、最初は囲いから遠く離れていた金が戦う内にだんだん玉に近づいていくという棋譜が多く存在する。最初は遊んでいるようで、色々あって最後には働くようになっている。そこに物語性があるようで、何か面白く感じられないだろうか?
「玉から離れすぎた駒は遊んでいるのか?」
将棋の盤は広いようで意外と狭い。遊んでいるようでも、働く時にはいきなり働き出したりするものだ。(それにはもう1つ理由がある)
僕は世界の果てにあるようなと金でも、軽視しないように心がけている。
82飛車成(王手) 42飛車 66角?
82飛車!
苦し紛れに打ったような飛車合が自分の竜に当たっているのを完全にうっかり。(弾丸ウォーズではよく大駒をただで取られる)
投了が頭を過ぎった次の瞬間、敵玉にかなり王手が続くことに気がついた。(詰む形)になった時には、潤沢な駒台が物を言う。そして、左辺は案外に広くないようなのだ。
(あきらめるには早すぎる)
王手! 時間も1分弱ある。
玉を中央に追うと詰む形がみえてきた。(詰めチャレの成果だ)
はるか昔にできていた71のと金が、収束形を作る最後の拠点として働いていたのだ。(遊んでいた駒が最後に物を言った)
遊び駒が働きをみせるもう1つの理由。それは王手の力だ。王手王手と続くことによって、玉は強制的に長い旅をする。自ら動かさずとも王手の力によって(相対的に)、遊び駒は一気に重要な駒になり得る。そこに王手/将棋の面白さもあるのではないか。ほとんどの時間を眠っていても、最後の最後に値千金の働きをみせることがある。
「王手の可能性がある限りは、完全な遊び駒など存在しない」
それが僕の出した結論だ。
世界の果てと思えた符号も、気がつくと突然世界の中心になることがあるからだ。