眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

夏の終わりの40分

2023-10-19 19:28:00 | コーヒー・タイム
 18時、外に出るともう夜だった。夏が終わったことが明らかになった。自転車は壁にもたれて錆びついていた。動いたとしても歩く方が気楽だった。傷つくよりも傷つける方が遙かに恐ろしいからだ。2.8キロの道程を、僕は40分ほどかけて歩いた。真夏に歩くとたどり着いた時の温度差に泣かされる。ようやく、歩きやすい季節が訪れた。

「砂糖とミルクはお使いですか?」

 半年経つと、店の様子も何か変わっていることがある。フォークやマドラーは以前と同じでカウンターの横にあるのに、砂糖などはなくなっている。注文した商品とは関係なく、根こそぎ持って行く者がいたのだろうか。前は砂糖にも種類があって、僕はライトシュガーを好んでいたが、今はもうなくなったのだろう。

 たどり着いたことに満足して、僕はコーヒーを飲んだ。店の入り口は広く、天井も高い。ここに来ると不思議と心が落ち着く。あと90分はゆっくりすることができるだろうか。少し暑くなって、袖のボタンを外した。左は上手く外れたが、右は途中で糸が引っかかってしまったようだ。無理に力を加えると取れてしまうかもしれない。七分袖のボタンなど、なくても別によいと思えて、取れることはそう心配でもなかった。
 しばらくして落ち着くと、少し冷えてきた。まだ冷房が効いているのかもしれない。僕はボタンを留め直した。傍にある玄関マットに1本の糸くずのようなものが付着しているのが見えた。西の出入り口には置いていないのに、どうして北側だけマットがあるのだろう。こちらの方が、より外とダイレクトにつながっていて、ゴミやほこりが紛れ込みやすいためだろうか。
「こっちもあるよ!」
 あるいは、人々に扉の存在を知らせる意図もあるかもしれない。
 マットの色は、僕のシャツよりも少し色あせた緑だった。

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日記じゃないから/無理ゲー・カフェ/年齢不問

2023-10-03 00:08:00 | コーヒー・タイム
 玄関の照明が数年前に切れてそれっきりになっていた。記憶を頼りに靴を履いた。だいたいはそれで上手くいくのだ。エレベーターで下を向いた時、左右が大きく違っていることに気がついた。左は黒のナイキ、右はネイビーのリーボックではないか。そいうファッションもなくはないが、簡単に受け入れるには心の準備が足りず、とても履き通す意志を持つことはできなかった。1階まで下りると、僕は再度部屋まで戻ることにした。

「戻れるだろうか……」
(間に合うだろうか)

 いつも漠然とした不安と一緒に、書き出して途中の断片をいくつも抱え込んでいる。いつかペンを置いたところから、再び続けることは可能だろうか。あまりに時を置きすぎたものは、何も思い出せなくなっていることもある。あるいは、言い掛けたことはわかっても、核となるべき熱量が失われてもう進めなくなっていることもある。
 もしも「日記」だったら、書き始めた勢いのままに、当然の如く書き切るだろう。日記ではないから、今日である必然性がないのだ。
「きっと戻れるだろう」
(また思い立つだろう)
 そうして途切れさせてしまう断片が、不安とともに積み上げられていく。振り返っては、自分の無力さを思わずにいられない。


「先にお席をお取りください!」

 人気のカフェでは、席を取るにも一苦労いる。ランチタイムやおやつタイムでは、一層競争が厳しくなる。カウンターを見て、奥の2人席を見て、真ん中のコの字型カウンターを見る。コの字の部分には、6席が存在するはずだ。しかし、実際のところ、東側の席を使用するのは激ムズだ。すぐ側のテーブル席の椅子との隙間が3センチしかなく、時には接触していることもあるのだ。(今までのところそこに人がかけているのを見たことがない)

「先にお席の確保をお願いします!」

 確かにあそこも空いている、ようには見える。けれども、椅子があっても引けない椅子だ。まるで絵に描かれた月のようだ。そこにあっても確保は困難。つまりは無理ゲーだ。

(そこに見えてもたどり着けない)
 以前、奈良のフットサル・コートに行った時のことを思い出した。施設は天空のような場所にあり、車道からは行けそうだが、地上から歩いて行く道が見つからずに、店に電話したのだった。確かあの時は、地下トンネルのようなところを潜って、民家の畑を通り抜けて、犬に吠えられながらもなんとかたどり着いたのだった。高いところでボールを蹴るのは気分がよくて、どこか別の惑星にきたような感じでもあった。

 3センチの隙間でも、接触していても、強引に身を乗り出して確保を試みれば、実際には座れるのかもしれない。テーブル席の人も、チャレンジに気づいてスペースを作ってくれるかもしれない。仮に着席に成功したとして、今度は無事に脱出できるかという問題は残る。それはまたもう1つのゲームである。どうしてもそこしか「空席」がないという機会があったら、いつかチャレンジしてみようと思う。


 2つ隣の席に男たちがかけていた。
 商談を終えた2人といった感じだ。

「おいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「……。65くらいですか?」
「……」
 男はすぐには答えない。意味ありげな間を取ってから、両手を広げる。

「10上や」
「えっ?」
「それより10上や」
「えーっ! とてもそのようには見えませんよ」

 どこかで見たようなやりとりだと思った。きっとどこかで見たのだろう。「いくつに見える?」その問いに(若く見られたい)という願望が含まれているとしたら……。相手はピタリと当てようとするだろうか? それはあまりにもギャンブルだ。そう親しくなくなければ、あるいは商売絡みならば、尚更のこと。恐らくは、自分が思ったよりも10くらい上に言ってみるのが、無難なところだろう。だとしたら、このやりとりのすべては予定調和みたいなものかもしれない。こんにちは、おつかれさまくらいのものだ。人はどうして若く見られたいのだろうか? 若く見られるとうれしいのだろうか? それはお手柄なのだろうか。
 企業の採用欄などに「年齢不問」などとある。そうしておきながら一方では堂々と生年月日をはじめ根ほり葉ほりとたずねてくる。そこに矛盾はないのだろうか。
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カフェという名の逃亡先(夏の決断)

2023-09-13 18:43:00 | コーヒー・タイム
 コーヒーはおうちでも飲める。なぜ、カフェなのか? カフェに行くのは必然なのか? そんな疑問を持ち始めたきっかけは、夏の「どの店に行っても寒すぎる」問題だった。
 入った瞬間は確かに心地よい。15分で帰るなら何の不満もないはずだ。だが、1時間、2時間と本格的に腰を落ち着けて「ゆっくりする」となると話は変わる。店に行くと「ごゆっくりどうぞ」的なことを言って歓迎される。だが、ふと壁を見ると「長居は無用」的なことも書いてある。本当はどうしてほしいのだ? 
 僕はコーヒーを飲みながら考え事を始め、集中力が切れるまでゆっくりしていることが多い。(だいたい90分以上は続くと思う)だいたい途中で寒くなってくる。酷い場合には震えるほどだ。そこで夏の寒さ対策として鞄に防寒ウェアを用意している。しかし、本当に寒い店では、厚着をしてもなおごまかし切れない寒さであることもある。これは大変苦痛だ。集中の妨げにもなる。寒いからといって、真冬のようなかっこうをしているのも、違和感はある。

「何が楽しくてこんなことを?」

 安くもないコーヒー代を払って寒さにじっと耐え続ける時間。流石にこれは馬鹿らしい。ようやく僕は考え始めた。随分と時間がかかってしまったが、気づいた以上はちゃんと考えないわけにはいかない。



「テーブルを求めて」

 カフェに行くのは、集中できるテーブルが欲しいからだ。適度な刺激と喧噪、緊張感を求めるからだ。「なぜ自分の部屋では駄目なのか?」種々の誘惑に勝つ自信がない。自分独りで行き詰まってしまうことが怖い。要するにカフェは、そんな弱い自分の逃亡先ではなかったのか? 部屋から逃げ出し、時間をかけて歩き、たどり着いた達成感を求めた。ついでに立ち寄るだけでなく、自宅から出かけて往復2時間もの道を歩いてカフェに向かったこともあっただろう。(真夏の道は厳しい暑さで、たどり着いた店は最初心地よくやがて極寒となる。寒暖差にも泣かされた)せめて、片道だけでもどこでもドアやルーラが使えたらと思った日もあった。ともかく店のエアコンは自分の好きにコントロールできない。なぜなら、店は自分の部屋ではないからだ。



「マイ・デスクを片づけよう!」

 何も置いていないデスク。それこそが必要なものだ。部屋にもデスクはあったのだが、いつ頃からか完全な物置になり、あってないようなものになってしまっていたのだ。デスクの乱れは心の乱れでもあったのだろう。そこから整理しないことには始まらない。デスクを一旦更地にする。大事なものは移動して、わけのわからないものは処分するのだ。ドリンク、ポメラ、ボールペン、メモ帳、スマートフォーン。これで十分ごちゃごちゃとするのだから、最初は何もないのが基本だ。何もないデスクは、何とも心地よい。何かを生み出せる可能性しかない。

 自分の部屋なら、当然エアコンのコントロールは自在だ。コーヒーのおかわりは自由。氷はいくらでも足すことができる。ホットでもアイスでも、タンブラーに入れれば温度を保つことも楽勝だ。何より安上がりで経済的。気分転換を図るのも自由。行き詰まったら踊り始めても、誰の迷惑にもならない。カフェにない長所は、数え切れないほどあることを発見した。適度な喧噪、緊張感は望めない。集中力をどこまで保てるかは未知数だ。だが、結局それも自分次第ではないか。少なくとも夏が終わったと言えるくらいまで、「もっと部屋にいよう」と今の僕は考え始めたところだ。

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ダイヤル・ロッカーの悲劇/苦さを求めて/君の才能

2023-08-30 16:40:00 | コーヒー・タイム
 疲れていたこともあって自分の場所が不確かになっていた。ここかもしれない。何となく手をかけると扉が開いた。ここだったか……。確かに荷物が入っていた。だが、何かおかしい。何度見ても自分のものではないのだ。触れてはいけない。閉めなければまずい。鍵が開いたままなのもよくない。僕は半ば反射的にロッカーを閉めた。(その時、余計なダイヤル操作をしてしまったのだろう)
 しばらくして、仕事を終えた従業員が戻ってきた。ちょうど先ほどのロッカーを開けようとして頭を抱えた。いつもの数字では開かないようだ。僕は事情を説明した。つい先ほどは開いていたのだ。彼は自分が鍵をかけ忘れたことに思い当たり愕然とした。
 しかし、僕に全く責任はないのだろうか? 僕のしたことは、開いているロッカーにロックをかけたことだ。その際、ダイヤル式ロッカーでは、ロックする瞬間の数字を当事者が記憶しておかなければならないが、僕は何も思わなかったのだ。人の荷物を開かずの扉の奥に封じ込めたとも言えるのではないか。(誰がロッカーを使用しているのだろう。従業員ならもうすぐ戻ってくるのではないか。そうしたことを何も考えられなかったのは、想像力の欠如とも言える)
 当然、僕は謝った。けれども、彼は少しも僕を責めなかった。ロックをし忘れた自分の責任だという姿勢を貫いていた。もしも、逆の立場だとして自分は同じようにいられるだろうか。あるいは、彼にしても内心「余計なことをしてくれるなよ」と思っていたかもしれない。全くそういう感じを出さないところは大人だった。もう随分と昔の話、今では苦い記憶だ。


 苦い飲み物を求めて、カフェに足を運んだ。苦さはしばし時間を止める。過去を振り返り、心を整え、再び前に進むための停滞。
「ごゆっくりどうぞ」
 その言葉にうそはない。いつから苦さを好むようになったのだろう。
 ワードプロセッサやパーソナルコンピュータの普及に伴い、多くの文具が活躍の場をなくしていった。広いカフェの中を見渡しても、多くのガジェットがカチカチと音を立てながら活動しているのが見える。文具は死んだのか? そうではあるまい。
 コーヒーを混ぜていたマドラーは消えて、いつの間にか僕の右手にはボールペンが握られていた。ぺんてるのエナージェル0.7だ。ペンとノートは環境に左右されにくい。例えば、電源もWi-Fiもなくても、ハンカチ1枚分のスペースさえあれば、自由に動ける。ペン先についたボールをドリブルしながらどこまで行けるか。障壁となるのは、時の空気、権力、種々の規制、睡魔、空腹、情熱の期限といったものだろうか。近代的なガジェットが生まれる遙か前より、その文具は存在していた。小さくて、力強く、素晴らしい文具!
 本体に内蔵されたインクは、ペンの命と言える。もしも、世界が一夜と設定されるなら、ほぼ無限に書き続けられることだろう。現実はどうだろう? インクか、アイデアか、情熱か……。何かが先に尽き、到達できる場所も限られる。物書きたちの絶え間ない競り合いが続いていることだろう。きっとこの広いカフェのどこかでも。


 屋根から飛び下りたまではよかったが、見上げるとそこはもう飛び上がれるような高さではない。では地上はどうか。見下ろしてみれば、そこもまた飛び下りるには躊躇われるような距離だ。そうして猫はいかにも中途半端な柱の上で置物のようになっていた。ちょうど駅の階段から下りてきた男が、置物の存在に気がついた。どれくらい前からそうなっているのかは知る由もないが、躊躇いを察するように柱の下で足を止めた。男は何やら猫に語りかけた。そして地上から大きく両腕を広げて見せた。

「どうしろと言うの?」

 猫は声には出さず、男の仕草に対して訴えかけた。男の唇が微かに動く。けれども、猫はずっと当惑した瞳を向けたまま動かなかった。男はやがてあきらめたように腕を下ろすとそのまま去って行った。どうやらそれは大きなお世話だったようだ。躊躇いの中に浸かっているだけで、意を決しさえすれば、できることは約束されている。その時、猫はまだ自分の能力のすべてを知らずにいた。

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コーヒー・タイム/熟成コーヒー

2023-08-17 16:27:00 | コーヒー・タイム
 腕時計は腕をしめつける。それが安心だという人もいれば、窮屈だと思う人もいるだろう。もう1つの選択としては懐中時計だ。腕につけておかずとも、持ち歩くことはできる。手帳や電灯や刀等と一緒で懐に忍ばせておいて、ここぞというタイミングで取り出すことができるのだ。いつでも胸の奥に信念のように取っておけるし、一旦取り出せば自分から距離を取って置くことができる。そこでは改めて客観的な視点を持って時を見ることができるだろう。畳の上、ハンカチの上、カウンターの上、どこでも好きなところを選んで置くことができる。勿論、置かないという選択も可能で、一瞬懐から出してまたすぐさま懐に戻したっていい。あるいは、一切表には出さずに御守りのように大事にするといった使い方も可能だ。その動きはまさに自分の胸の内にあると言ってよい。つけたり外したりという手間がないのは、腕時計にない魅力だ。だが、すぐに物をなくしがちな人には不安の方が上回るかもしれない。(常に見えるところにある腕時計の方がはるかに安心だ)
「時間なんか関係ない」「時間なんて存在しない」そう主張できる人。また、今よりも妄想の時間を生きているというタイプの人の場合、いずれの時計も必要ではないだろう。


 出発点と到達点の間には、それなりの距離があった方がいい。それなりにはたどり着いた感がほしいのだ。コーヒーを頼むのにも少しくらい並んでからの方が、注文した感があっていい。カフェはそれなりに混んでいる方が、席を見つけた感があっていい。あまりに人が多いところは嫌気がさすが、逆に空き地のようなところも張り合いがなさすぎて困る。(それでは自分の部屋と変わらないではないか。コーヒーが高いだけ損だ)閉店間際に過疎化していく雰囲気は悪くないが、最初から誰もいないのは違うのだ。飲み物は常温ではない方がいい。ホットならば冷めるまでの間、アイスならば氷がとけ切るまでの間、それが時計代わりになってくれるからだ。限られた時間に、何か楽しいことでも思いつくだろうか……。それが僕のコーヒー・タイムだった。


 例えば自転車に乗っているとして、あるいは道を歩いているとして、前の者を追い越すことには抵抗がある。なぜなら、ほとんどの場合、自分はそれほど急いでいないからだ。(急いでもいないのにどうして追い越してまで進むのだ?)一度そうした思考回路が働いてしまうと、追い越すという行動が躊躇われてしまうのだ。前方にその時の自分よりペースが遅い者が歩いていたとしても、僕は全身の力を抜いて歩調をコントロールし始める。接近しすぎたり、立ち止まったりしては、あおり行為と受け止められかねない。(もっとゆっくり行こうよ)急いだところで地球は狭いぞ。
 昔の僕はそうではなかった。歩くスピードに自信があった。自分より速い人がいるとすぐに対抗心が湧いた。(どうしてあの人はあんなに速いのだろう)動作を注意深く観察して、歩き方を研究したりしたものだ。現在の対抗心は、むしろ遅い方にである。前方にスマホをのぞき込みながらだらだらと歩く者がいると、対抗心が湧く。(あいつはスマホに夢中でだらだら歩いてるな。しかし、こちらはスマホなんか見なくてももっと優雅に歩けるんだぜ!)歩く速さから、速度の可変へと興味は移行したのだ。

「いつまでも到着したくない場所がある」

 そんな場所があるなら、あなたにもスロー・ウォークをすすめたい。歩くことは前進だ。歩き始めればいずれどこかにたどり着くことだろう。けれども、目的に近づきつつもなかなかたどり着かないように努めることはできる。僕らは自らの足下から時間をコントロールすることができるのだから。


「ごゆっくりどうぞ」

 あなたはその言葉をどれほどの覚悟で受け止めるだろうか。熱いコーヒーは、すぐに飲み込むことはできなくても、いずれ冷めてしまうことは避けられない。その1杯で本当にゆっくりするためには、それなりにコツのようなものが必要かもしれない。(それは人生の楽しみ方にも通じるものがある)コーヒーをゆっくり飲むことを極論すれば、コーヒーを飲まないことだ。飲むとしても一口を極力小さくする。カップに口をつける程度の控えめな飲み方にすることだ。
 仮に生真面目にコーヒーに向き合って本気飲みしてしまったら、10分もしない内にコーヒーカップは空っぽになってしまうだろう。それでは「ごゆっくり」とはほど遠い。向き合いすぎては駄目なのだ。時にはコーヒーから完全に視線を外したり、距離を取ったりして、コーヒーの存在を消すような態度が望ましい。(飲まない時間を楽しもう)離れている間も、完全に忘れているわけではない。やがて訪れる再会を楽しみにしながら、心の奥に取ってあるというわけだ。
 人生の究極の目的は、目的を達成しないことにある。つまりは「リラックスする時間をつくる」ということだ。生きている「ゆとりを楽しむ」という点では、人よりもむしろ猫の方に見習うべきところが多い。(猫を師と仰ぐことも納得できる)
 目的を達成しないために必要なことは、全力を傾けないということだ。間違っても全身全霊を捧げてはならない。コーヒーを飲むこと、酒を飲むこと。そこでは思い切って手を抜くこと。言わば八百長だ。(戦っているようで戦っていない、飲んでいるようで飲んでいない。そういう加減が大切だ)

「ごゆっくりどうぞ……」

 コーヒーをゆっくりと飲むことは、コーヒーを飲まない時間を長引かせることに他ならない。(実際には飲んでいなくても、カップに1滴でもコーヒーが残っていれば、コーヒーを飲んでいると言える。カップが空っぽになった瞬間、もうコーヒーを飲んでいるとは言えなくなる)
 コーヒーという本分に対して、直接的に当たりすぎては時間が停滞しない。(本分から離れている間にすることがある)コーヒーを飲んでゆっくりできる人というのは、実際コーヒーだけを求めてカフェにやってくるのではない。最初に注文するのがコーヒーであるにすぎない。勿論、それは大切なものではあるけれど、それ以外に、人との会話、勉強、カードゲーム、読書、まどろみ、チャット、妄想……。そうした種々の楽しみ、言わばもう1つの本分を持っているのである。一旦、コーヒーのことは置いて(遠く離れた故郷のように)、人生を楽しんだ後にやがて戻る時もある。その時、愛はより深く熟成されているのかもしれない。

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信号のない三叉路/隣人は選べない/さよなら駅

2023-08-05 17:14:00 | コーヒー・タイム
 子供の頃、ポケットに手を入れていて怒られた記憶がある。ポケットが悪いのか。ポケットがある服を作った人が悪いのか。そうではない。時と場合によるのだ。マナーとしてよくない場面があるというだけのことだ。ポケットに手を入れながら接客しない。それは接客の常識とされている。けれども、ポケットは便利だ。ペンやあめ玉などちょっとした物を収納することができる。鞄ほどではないが、最低限の収納力があるのは魅力だ。ポケットのあるシャツが好きだ。ポケットに手を入れて歩くのがずっと好きだった。気取っているというわけではない。
 今日はポケットに手を入れて歩こう。そういう気分の時がある。例えば、風が強い時だ。暴走自転車が横をかすめて走り去る時。手を振って歩くような元気のない時だ。


 信号のない三叉路だった。停止線の手前に止まった車は、いつまで経っても左折できないでいた。車はどこかの信号のタイミングによって途絶えるかもしれない。人通りとなると18時辺りではなかなか厳しい。途絶えないとなると、人が足を止めてくれなければアクセルは踏めない。言わば人の善意を待つしかない。あなたは大通りに出ようとする車を前に足を止めるだろうか? 横断歩道で立ち止まっても無視するように走り過ぎて行った車のことを思い出して、誰が止まるものかと思い横切っていくだろうか。だが、その車はあの時の車とは違うかもしれない。(ちゃんと横断歩道で止まってくれる車だっているのだ)転機となるのは誰か一人が足を止める時だ。そして、重要なのはそれに続く人が一人現れることだ。複数が止まり出せば、流石にそこにはそういう空気、(車を先に通そう)とする共同意識が生まれる。そうした空気を壊せばむしろモラルを問われるだろう。
 その時、一人の女性が立ち止まった。僕は考え事をしながら道を横切った。(人も急には止まれないのだ)車が相手でも、お先にどうぞと言えるような、ゆとりのある人になりたいと思う。


 横が壁、前が窓の角席が取れて喜んでいた。隣人はパソコンと会話をする人だった。パソコン通信だ。ようやく天国に来たら鬼もいたという感じだ。席は選べるが隣人は選べない。家でも電車でも職場にしてもそうだ。大げさに言えばそれは運命だ。(もう1つの店にしてもよかったのに……)多少の後悔も押し寄せてくる。買ってしまった以上は、簡単に出て行くことはできない。引っ越すことは容易だ。家の引っ越しや転職と比べれば、カフェの席くらいいつでも変えることができる。(一時の辛抱ではないか)動かないのは、そのような気持ちがあるからだ。引っ越したとしても、その先の環境はわからない。隣人はもうすぐいなくなるかもしれない。だいたいそういう期待はするだけ無駄だ。順番は決まっていない。早く来た人が先に帰るというものでもないのだ。

 気になり出すと気になってしまう。「あー はいはいはいはい お願いします おつかれさまです あーそれね あーそれがややこしい あーそうしといてください」相槌とか笑い声とか、全部が気になり始める。気にしすぎだろうか。平気な人はいいなと思う。好きな人のいびきは気にならないという人もいるという。僕は人間嫌いかもしれない。イヤホンをさしてボリュームを上げたとしても、打ち勝てない。突き抜けて気になるのだ。

 そもそもここは電源まで用意されている。長く滞在してビジネスにも活用でき、またそのような利用が推奨されているのだ。
(ジェラシーかもしれない)ふとそのように思う。自分は誰とも深くつながっていないのではないか。隣人は離れた人とつながりながら、充実したビジネスライフをきっと送っている。パソコン通信へのジェラシー、エリート・ビジネスマンへのジェラシーだよ。


 夢の中ではトンネルに布団を持ち込んだ。あいつが来る前に抜ければよいと考えた。抜けられるだろうか。長いトンネルだった。誰かがものすごい力で肩を叩いた。恐ろしくて目を開けることができない。あいつか。その怪力には覚えがあった。凶暴で容赦がない。うそであれと願いながら、前に進んだ。進めている確信はなかった。今度はもっと強く肩を叩かれた。やっぱり来たのか……。半ば観念するように目を開けた。
 そこはトンネルではない。どうやら自分の部屋のようだ。後ろを振り返っても誰もいない。外でもない。あいつもいない。

 舌打ちが気になるのでやめるようにとチーフが言った。鼻水が出て苦しいのに、舌打ちのように聞こえているだけなのに。ここぞとばかりにブチ切れるとチーフは慌てて僕を引き留めた。会議室には役員の人たちが集合して、離職率を下げるための意見を出し合っていた。「君は残るんだろう」一人も手放したくはないようだった。皆の視線が一斉に僕の方に向いた。その時、全員が煙草をくわえて火をつけるのがわかった。

「僕、煙草大嫌いなんでやめます!」
 チーフの態度に加えて、その光景は僕の心を決定づけた。

「やめろ! やめろ!」

 今度は誰一人引き留めない。そこに愛煙家の団結を見た。忘れ物はない? ロッカーを空っぽにしてすぐにエレベーターを下りた。この駅ともさよならだな……。駅前を歩きながら、小さな縁が切れることを思って、少し切なくなった。

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君はPayPayを許さない/誓いの助六

2023-07-26 09:05:00 | コーヒー・タイム
「右ですか? もう一度よく見てください」

「左」

「はい。結構です。いつも通りですね」

 一旦待合室に戻りしばらくすると名前を呼ばれ診察室へ入った。瞼から検査のための液体を注ぎ、医者はレンズをのぞき込んだ。しばらく黙り込んでから、先生は半年振りなので写真を撮らなければと言い出した。(どう考えても半年振りのはずはないのだが)診察室の外には誰もいなくなっていた。しばらくして慌ててスタッフが戻ってきた。写真を撮って再び待合室へ戻った。5分くらいして名前を呼ばれた。診察室へ戻ると先生は写真はちゃんと撮れていたし病変はないと告げた。検査が1つ抜けていると指摘すると先生ははっとして僕の目にレンズを向けた。

「はい、右を見てください」


 ローソンに入り伝票をカウンターに置くと店員が駆けてきた。

「PayPayで」
「PayPayはお使いいただけません。現金のみになります」
 店員は即座に言い返した。何でもPayPayで済むと思ったら大間違いだ。

「じゃあいいです」

 僕は自分の間違いを認め、素直に引き下がった。
 しばらく歩くと郵便局があった。受付は閉まっていたがATMが開いていた。コンビニ店員が切り離しかけた右端を完全に切り離して、伝票投入口に伝票を入れた。

「現金か残高か」

 機械は二択しかないと言った。そこにPayPayが映ると思ったら大間違いだ。現金は小金くらいしか持っていなかった。残高はあってもカードを持参してなく、残高を使うこともできなかった。仕方なく取引を中止すると伝票がまっすぐ返ってきた。僕は何もできない人のようだった。あきらめて郵便局を出た。
 すぐ隣にお寿司屋さんがあったので持ち帰りの窓を開けた。

「いらっしゃい」

 お店はまだやっているようだった。助六を注文すると女将さんは、助六だけはもうできないと言った。稲荷がすっかりなくなってしまったのだ。思い直して僕は海老の箱寿司を注文した。それはそれで美味しそうだ。

「お待たせしました」

 僕は小銭20円と千円札を出した。おじいさんが握っている古くからあるお寿司屋さんだ。PayPayなんて言うのは野暮というものだろう。

「何時までですか?」

 だいたい6時半くらいだと女将さんは言った。僕は再びこの窓に戻ってくることを胸に誓った。(今度は助六を頼んでみせる)

「またお願いします」

 北に歩き始めると雨が降り出した。降水確率は10%。降り出しても決しておかしな話ではない。僕はもう一度南へ戻った。お寿司屋さんの先は、もう商店街である。


 夕暮れの商店街は、すっかり廃れて人影も疎らだった。けれども、西へ歩くと少しだけ(相対的に)活気を感じることもできた。通り過ぎようとしたところで足を止めて、僕は八百屋さんに入った。

「いらっしゃい」

 3秒ほどして奥から店主の元気な声がした。小さな八百屋さんだった。高いところに青梗菜が見えた。欲しいのはそれではない。東側から店内を見回す。あれか? 西側にあるポップに手を伸ばして裏返すと100円だった。僕は小松菜を手に取って店主のいるレジの元へ向かった。

「小松菜で?」
 店主は小松菜を確認した。

「はい」

 僕は小銭入れから500円玉を用意した。その途中でレジに貼りついているPayPayシールを見つけた。

「PayPayも使えるんですか!」

 僕は感動のあまり声に出して言った。
 すっかり廃れかけた商店街にある小さな八百屋さんにPayPayを使うことができるところがあっても別に不思議でも何でもないにも関わらずにだ。

「使えますよ。よろしいですか」

「まあ」

 僕はもうそこまで出掛かっていた500円玉を引っ込めることは、あえてしなかった。(そこまでPayPayのことが好きじゃない)それに、いずれまた訪れることがあるに違いない。何しろあのお寿司屋さんから遠くない場所だ。
「ありがとうございます」
 ありがとう。清々しい八百屋さん。

 箱寿司と小松菜で荷物がいっぱいになってしまった。古民家カフェもまもなく閉店だし、処方箋を薬局に持って行かなければならない。僕は家で飲むカフェラテに期待することにした。(家ほどゆっくりできるところがあるだろうか)


 とんでもない思い違いをしていたことに気がついた。コンビニも郵便局も必要ない。必要なのはスマートフォーンだったのだ。僕は伝票のバーコードにスマートフォーンをかざし情報を読み取った。残高がチャージされていることを確認して、今すぐ支払うをタップした。

「PayPay♪」

 あまりに大きな声が支払いの完了を告げた。金額が多少大きかったからかな? 小さな部屋は、音がよく響く。

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喫茶店の終わり/もっと普通にみてほしい/美濃が崩れても

2023-07-18 15:49:00 | コーヒー・タイム
 ランチタイムの終わった王将はあっさりと詰んでいたので向かいの喫茶店に向かう。外からでも硝子の向こうに空席が確認できる。入った途端に閉店時間を告げられた。誰もいないのはそのせいでもあるのだ。

「ピラフかカレーになります」

 もはや食べられる物は限られた。あまり迷わずにカレーにした。(今日はナポリタンを食べたかったのに)案外すぐには出てこない。何度かレンチンの音が響く。レトルトよりも手間がかかっているなら少しうれしい。女性客が入ってきてまだ大丈夫かと聞いたあとで、カフェオレと玉子サンドを注文した。お待たせしました。カレーは熱々で所々に見えるビーフの塊はそれなりに旨いと思えるものだった。ごちそうさまでした。腹ごしらえを終えて席を立つ。今度はカフェで陣取りゲームが待っている。


 狭いテーブルの上ではポメラを開くのも気が重い。メモや、ボールペンや、ポケットティッシュや、色んな物がごちゃごちゃとして、コーヒーをこぼしてしまうことも考えられる。その時、僕はフリック入力とエバーノートで断片を練っていた。「ポメラだけあればいい」なくてはならないと思われたことも、なければないで何とかする。環境に合わせて生きていくのが生き物だ。そう考えれば、世の中に絶対になくてはならないものなどないのかもしれない。愛も、心も、手放してみればどうということはないのかもしれない。先のことはわからない。

 ポメラを置いて活動していると、手を骨折した時のことを思い出す。その時には、ポメラを開いても仕方がなかったのだ。ポメラと離れて過ごす寂しさの中で、ノートを開き、片手でペンを持たなければならない。(それはどこか、故郷を遠く離れて新しい街で暮らすことに似ていた)ノートでできる範囲は限られてしまう。最初は無力感ばかりがつきまとったが、色々と工夫を重ねて取り組む内に、ノートにはノートなりの良さがあって、ペンにはペンの可能性が広がっていることに気づかされた。(新しい風景が見えた)それは折れていなければ得られなかった経験だ。
 骨折は骨が折れる。当たり前のようにつながっていたところに空白ができ、そこに恐怖や不安が入り込んでくる。だからと言って悪いことばかりだとは限らないし、一度折れてつながったことでより強くなるものもある。何が「幸い」か。そういうことは簡単に決められるようなものではない。だから、安易に人を憐れむことは浅はかだ。

「かわいそうに」

 幼年の頃、上手く歩くことができなかった僕に、大人の人が言った。他のどんな言葉よりも、それが一番僕を傷つけた。色んな葛藤を乗り越えながら現実を受け入れ、そこをスタートラインにしようとしてるのに……。(何も知らないで)勝手に決めつけるなよ。くやしくて、怒りがこみ上げて、泣きたい気持ちだった。僕はもっと普通にみてほしかったのだと思う。
 言葉を発した大人は、その言葉が誰かにダメージを与えるなんて、夢にも思っていなかっただろう。悪気はあってもなさすぎても恐ろしい。きっと、その人は何も考えていなかったのだ。


 何も考えない方がずっと楽だ。確かにそれは1つの真理かもしれない。楽を望むならそれも本筋だ。
 何のためにやっているのだ? 目的意識を持つこと、再考してみることも、上達を望むとするなら有意義なことだ。勝ってうれしい。負けてくやしい。勝ち負けに一喜一憂するのもいいが、あなたが将棋ウォーズを指す時、目先の勝利の他にも求めているものはたくさんあるのではないだろうか。
 勝負強くなりたい。上手く切り返せるようになりたい。もっと手がみえるようになりたい。臨機応変に指せるようになりたい。読み筋を外れても動じないようになりたい。常に動じていないようにみせたい。迷い、躊躇いから放たれたい。成長したい。今の自分より、昨日の自分よりも強くなりたい。勝ち方が上手くなりたい。見切りが上手くなりたい。もっとわかりたい。もっと理解したい。もっと真理に近づきたい。もっと名人に近づきたい。もっと神さまに近づきたい。すべては望み通りにはいかないが、望みを持つことは素敵なことではないだろうか。

「この戦いが何の役に立っているのか?」
(何の訓練になるのか? どこを鍛えているのか?)

 勝った負けただけでも十分に楽しめるかもしれないが、日々テーマを意識して戦いに向かうことも楽しみの広げ方として有力ではないだろうか。壮大なテーマを持って目的に向かっている人間は、心を強く持つことができる。(その状態では目先の勝負を超越できる)目前の一局の勝ち負けなんてどうでもいいのだ。だって、あなたはもっと長く険しいけれどももっと夢のある道を進んでいるのだから。

 空中分解将棋のすすめ  ~堅さ=正義との決別

「あなたは居玉で戦ってみたことがあるか?」

 勝率を上げる近道は玉を堅くしておくこと。確かにそれは一理ある。(弾丸等極端に短時間の将棋ではより説得力もある)だが、勝率を上げること、勝つことと、強くなることはまた別だ。底力を上げるために、あえて手痛い経験を積むことも1つの考え方だ。

 堅陣に組んだ玉は必ず無傷で終われるのか?

 攻めている時にはやたら強いが、攻められ出したらそうでもないという棋士は多い。穴熊が無傷で王手がかからない時には調子がよいが、穴から追い出されたらもう無茶苦茶になる。そういうのは棋力のバランスが偏っていると言える。将棋は複雑なゲームである。(攻めたり受けたりすることが必要)攻めたら強い、受けたら強いというより、攻守のバランスに優れている方がいい。とは言え、受けというのは難しく、薄い玉形で攻められながら勝つというのは、それなりの経験/訓練が必要だ。
 相振り飛車の囲いは常に迷う。あまり囲いに手をかけていると先に攻められやすい。慎重にバランスを取っていると手詰まりに陥りやすい。思い切って「囲わない」という戦術もある。(「流れ弾に当たりつつ勝つ」という訓練の意味を兼ねる)相手が居玉に近いとみると、狂ったように攻め込んでくる棋士は珍しくない。実際に狂っている場合は間違いなく形勢はよくなる。

「流石に無理すぎだろう」みたいな強襲に対して一旦優勢にはなるものの、何だかんだとやっていう内に、火のないようなところからも煙が上がり、流れ弾に当たって最終的には負けてしまう。
 あれ? 変だな。やっぱり固めておかないと駄目か……。目先の対局に勝つための結論は、強くなる上では逆である。負けてもよいからだ。負けるのは実力だ。それを玉形のせいにするのは簡単だが、本当は薄い玉形での戦い方/勝ち方を知らないからだ。そこを反省し、改善しながら鍛えていけばよいのだ。居玉や薄い玉形での戦いにも慣れておくと、いざ穴熊から追い出された時、美濃囲いを削られた時にも、そう動じなくなる。「あの玉形を耐えたのだから……」そうした苦労や経験が自力になるのだ。

(空中分解将棋)
 それは「美濃が崩れても勝つ」ための訓練だ。
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雨がいい訳/暗黒のナス 

2023-07-13 01:24:00 | コーヒー・タイム
 コーヒーを注文する。
「ポイントカードはお持ちですか」
 忙しくても欠かせない一行がある。gooブログと連携されますか。今はやめておくと丁寧に伝える。コーヒーだけなので注文は繰り返さない。

 時に部分は全体を語ることがあるか? ポスターの下15センチの隙間から道行く人を推測してみる。彼の身長、職業、趣味、目的地、好きな食べ物。彼女の理想、目的地、座右の銘。
 雨に濡れたアスファルトに反射するヘッドライトが光と影を生み出している。18時30分。雨の日ならではの風景がある。毎日同じようで全く同じにはならない。それが日常だ。

 寝不足に伴う疲労は解消されないままだ。いつからか。とめどない鼻水。なかなかとまらない咳。「どうせ遠出はできない」
 そんな時の雨は、むしろ恵みの雨だ。ほんの15分の道も歩くことは偉い。近場であっても何か「やって来た」感を感じることができる。


 ナスは魅力的だ。何が旨いのか説明がつかない。しかし、旨いのだ。積み上げられたナスの前で、迷いに迷う。松ナス、竹ナス、梅ナス。選んでいるつもりでも、選ばされているのかもしれない。
 迷った末に買って帰ったドレッシングが、結局いつも同じだったという経験はないか? 「DNA手帳に最初から書き込まれていたのだ」
 気になったナスを手に取ってみる。一度戻してまた選び直す。前よりいいともわからないが……。一回切り返してパスを出すと少し上手くみえる。そのような感じでナスを決定する。

「こんなまずい野菜が……」
 それがナスとの出会いだった。多分あれは腐ったナスだったのだと思う。暗黒の記憶を払拭するまでには随分と長い時間がかかった。暗黒に足を踏み入れるのも、暗黒から抜け出すのも、ほんの些細なきっかけなのかもしれない。

 ナスを選び終えて安心していると、すぐ横に5本入りのナスを発見した。セール! 198円。なんと3本でも5本でも同じ値段だ。しかし、5本入りの方は、幾分ナスのサイズが小さいようだ。とは言え5本である。その時、更にその向こうに長ナスという、また新たなナスが出現した。名前の通り長い。ナイフに対して長槍のようだ。こちらの方がより強いモンスターを倒せるかもしれない。しかし、僕に扱えるだろうか……。(タジン鍋からはみ出してしまうかもしれない)今日のところは長ナスのことは忘れることにした。セールのナスをカートに入れるともやしコーナーに向けて歩き出した。

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何もしないカフェ/遊びの定義/王手の力

2023-07-08 17:38:00 | コーヒー・タイム
 ポメラを置いてきた日には、ノートが開かれることになる。
 ノートとガジェットは併用するともっとよくなるはず。それぞれに長所があるのだ。ノートは同期なんてしなくていい。電源やWi-Fiがなくても平気。つまりは環境を選ばない。チープなものには安心感がある。少しくらいコーヒーをこぼしてもいい。落としても壊れない。静かで他人の迷惑にもなりにくい。ペンを走らせる音など、落ち葉がすれて囁くくらいのものだ。
 風邪を引きずってコーヒーを注文する声に重みがある。新しい自分が現れた。このままでもいい。きっとそれは愚かな考えだろう。
 ポスターの裏地に逆さまのチキン。硝子を覆うものが何もなかったら、外の世界はもっと大きく見えるのに。この世界を支配しているのは広告なのか。バス停にかける腕組みの男。次の試合に向けて戦術を練っているのか。どこかのチームの監督、あるいはコーチだろう。


店内において以下の行為を禁止致します。

 すべてはお客様が快適に過ごされるためだと書いてある。眠ってもいけないし、トランプやカードゲームの類は禁止だ。目につくような遊び方をしてはいけないのだ。逆にノートやテキストを広げて、熱心に仕事や勉強に打ち込むことも禁止だ。娯楽も仕事も勉強もいけない。何もしないのはよいが、眠るのは駄目だ。ある程度はそういうことが許容されるタイプの店もあるが、建前上は禁止というカフェも多い。とは言え、やはりそれは程度の問題だ。テーブルの上でカードを切った瞬間に追い出されるわけではない。少しノートを開いたくらいで咎められもしない。コーヒーを飲むという本分を上回る生活の拠点をテーブルに置くくらいのことがなければ、実際には何も起こるはずもない。

 遊んでいるのか、働いているのか。一目でそれは見分けがつくものだろうか。フル充電したところからどれだけ持つか? 家電量販店でノートを選んでいた時、それは使用状況によると店員は答えた。印象的だったのはその次の言葉だ。

「ほとんどの時間は止まっているのです」

 人間はノートを開いて仕事をしている時でも、フルに動いてはいないというのが、彼の持論だった。首をひねったり、ため息をついたり、遠くを見つめたり……。そうした時間が、ノートと向き合う大部分を占めているのだ。当然、その間のノートはさほど電力を失わないというわけだ。なるほどそういうものかと妙に感心したことを覚えている。

 あのメッシだって止まっている時は止まっているではないか。ずっと動いてばかりではない。でもその時がやってきたら目覚ましい動きをして、決定的な違いを生み出してみせる。メッシはそれまで遊んでいたのか? 遊んでいるようにも見えるし、見せかけていたとも言える。止まっている時間も、先を見据えて準備していたとすれば、偉大な静止と解釈することもできるだろう。

 できない上司に限って動き詰めることを要求するが、それは物事の効率というものをまるで理解していないためだろう。ストップ&ゴー、パス&ゴー。課題をクリアし壁を越えていくためには、緩急をつけることが重要だ。人はロボットとは違い、傷ついたり疲れたりするものだ。同じ人でありながらそこを考えられない人が多いのも、悲しい現実だ。

 この人たちは何を求めてカフェにやってくるのだろうか。時間を潰すためか。談笑するためか。くつろぎを求めてか。コーヒーが生き甲斐なのか。何の目的もなくふらふらしながらたどり着いたのか。遊んでいるのか、遊んでいないのか、傍目にはわからない。あと少し。カップに残るコーヒーを飲みきらなければ……。だけど、僕はもう眠りたかった。(飲まなきゃ)(このまま眠ってしまいたい)2つのテーマの間で揺れている。その感じは、悪くなかった。


「いつまで遊んでいるの?」(いつになったらまともに働くの)
 あなたはそうやって誰かに責められたりしたことがあるだろうか。

 将棋には「遊び駒」という駒(状態)があり、形勢の足を引っ張る要因にもなる。

「遊び駒は作らない方がよい?」

 最初から最後まですべての駒が働いて勝つ。そんなことが可能だろうか。大山十五世名人の振り飛車では、最初は囲いから遠く離れていた金が戦う内にだんだん玉に近づいていくという棋譜が多く存在する。最初は遊んでいるようで、色々あって最後には働くようになっている。そこに物語性があるようで、何か面白く感じられないだろうか?

「玉から離れすぎた駒は遊んでいるのか?」

 将棋の盤は広いようで意外と狭い。遊んでいるようでも、働く時にはいきなり働き出したりするものだ。(それにはもう1つ理由がある)
 僕は世界の果てにあるようなと金でも、軽視しないように心がけている。

82飛車成(王手) 42飛車 66角?
82飛車!
 苦し紛れに打ったような飛車合が自分の竜に当たっているのを完全にうっかり。(弾丸ウォーズではよく大駒をただで取られる)
 投了が頭を過ぎった次の瞬間、敵玉にかなり王手が続くことに気がついた。(詰む形)になった時には、潤沢な駒台が物を言う。そして、左辺は案外に広くないようなのだ。
(あきらめるには早すぎる)
 王手! 時間も1分弱ある。
 玉を中央に追うと詰む形がみえてきた。(詰めチャレの成果だ)
 はるか昔にできていた71のと金が、収束形を作る最後の拠点として働いていたのだ。(遊んでいた駒が最後に物を言った)
 遊び駒が働きをみせるもう1つの理由。それは王手の力だ。王手王手と続くことによって、玉は強制的に長い旅をする。自ら動かさずとも王手の力によって(相対的に)、遊び駒は一気に重要な駒になり得る。そこに王手/将棋の面白さもあるのではないか。ほとんどの時間を眠っていても、最後の最後に値千金の働きをみせることがある。

「王手の可能性がある限りは、完全な遊び駒など存在しない」
 それが僕の出した結論だ。
 世界の果てと思えた符号も、気がつくと突然世界の中心になることがあるからだ。

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雨と地下街の苦労

2023-07-06 17:35:00 | コーヒー・タイム
「おひとりさま? テーブル席へどうぞ」
 重たげなリュックを背負っているせいだろうか。海鮮焼きそば1000円。旨い。見た目もありがたみがある。もしもこれをセットにすると1500円くらいになる。エビ、ホタテ、白菜。他にはこれと言って入ってない。とろみでごまかされてない? 冷静になってみれば500円で作れそうだ。豚肉を軸に、よりヘルシーな感じで。チキンラーメンをアレンジしてもいい。家ならご飯とスープをつけるのに300円もかからない! 昼はウエハースだけ、流石に空腹に耐えられなかった。


 いつもと違う元喫煙ルーム側にリュックを置いてどうにか席を確保できた。夕方前はよく混んでいる。満席か? 席を探しあきらめて帰って行く人もいる。この辺りの地下街ではコーヒーを飲むのも楽ではない。


 夢の中ではもう1つのロケ地のことが気になって食べられなかった。「次はつるぎ、つるぎ」車掌の低い声が聞こえる。つるぎ? それは正しくは『学芸会前』のことだった。窓から入ってきた風船に呼ばれて踏み切りの手前で飛び降りると、僕はもう車道を走りだしていた。まどろんでいる時は走ってもいいという特別ルールが浸透している。
ーー 805 ーー
 道路の真ん中に大きく書かれた数字。道の長さか制限速度なのか定かではない。(大胆なランナーの落書きでなければ何か意味があるはず)意気揚々と腕振り走り抜ける僕の姿勢に驚いたのか。ドライバーはハンドル操作を誤って柵を越えた。それに驚いた馬たちが急に駆け出す。軽く捻挫した馬がいた一方では、加速の勢いのままにレースに参加してしまう猛者もいた。春の陽気は記録的で初夏が訪れる前に風鈴を鳴らし、線香の煙る夜に台風を呼び寄せたという。周辺視野にとらえた人々の影は様々だった。唇を噛み、首をひねり、お腹をさすり、腕を組み、膝を抱え……。思い切る時は僕に相談してほしいんだ。(少なくとも一言)と願わずにはいられなかった。
 スニーカーは田中さんの忘れ物。田中さん、その服、そのカラー、似合っている。だけど、これを履いて走ったら、もっともっとかっこいい! まだ館内にいるか。(田中さんを呼び戻さないと)焦っていたので落としてしまう。パスタはアルデンテまでは遠く、ついた泥を払った。きっとこれも田中さんの忘れ物だ! 泥を被りすぎて絶望的な数本を見切る。けれども、今度はボリュームが不安になって絶望の基準を見直す。泡立つ鍋に水を差す。(大丈夫さ)多少欠けてもふやけても、それだって個性なんだよ! 田中さーん!


 17時。席の真上にある扇風機の存在に疲れた。空席が目立つ。本格的な夕方になると家に帰る人が多いのだろうか……。(夕食の支度、家族との時間などあるのかもしれない)今なら迷えるくらいに席は空いている。自分の居場所を確保できるかどうか。それはちょっとしたタイミング次第だとも言えるだろう。

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損得だけでやってはいない/勝負の曲がり角

2023-07-02 18:43:00 | コーヒー・タイム
 日除けのシェードが下りている隙間5センチからのぞき見る。硝子、道、通行人、太陽の光、パチンコの光。一瞬だが神の視点を持ったような気がする。向こうはきっと別世界で、もはや交わることはかなわない。そのような錯覚が起きる。少し暑い。エアコンが利いていないことが妙に新鮮に思える。快適さを急ぎ求める世界が疎ましい。「暑いな」と言って冷たいものでも飲めばいいではないか。(あんまり快適だと話にならないよ) 暑いな、狭いな、眠いな、だるいな……。そうして感じながら生きていくのがいいのではないか。
 冷たい飲み物は氷がとけ切る前に飲みたいものだ。記憶は熱い内に振り返った方がよい。できるだけ間を置かないように、振り返る。それが感想戦というものだ。


76歩 34歩 68飛車 32銀!?

 弾丸ウォーズでは、たまにこのようなうっかりミスに遭遇する。(0秒台で指してくる相手に多い)その時、あなたはどうするだろう? 間髪入れずに22角成と角を美味しくいただくか。それともまずは落ち着いてお茶を飲むか。明らかな操作ミスと見て取れる場合、それに乗じて勝勢を手にするのは気が引ける。例えば歩の頭に飛車が急停止してきた時など。(一路操作を誤ったのは明白だ)そんな時、僕はあえてそこを無視して端歩を突くことがある。言ってみればパスをするのだ。だが、パスが成立しない局面もある。そうすると自分が大損害を被る時などである。また、操作ミスとうっかりとは別のものだ。僕は操作ミスで停止した飛車を歩で取ることには、少し抵抗がある。では、32銀の時はどうしているかというと、間髪入れずに22角成と角を取る。

 角を角で取ることの自然さに勝手に指が動いてしまう。(勿論それを取り返せないのは酷い)いきなり角得しては勝負ありだ。32銀は手拍子の大悪手。では、それに対する当然の一手22角成は好手なのか? ひねった見方をすれば、これもまた大悪手と言える。局面のバランスを一気に崩してしまうからだ。そのような将棋を誰が観たいと望むだろうか? (対局者自身はどうだろう?)確かにレーティングを稼ぐだけなら話は別だ。だが、ウォーズの棋士は、駒の損得や点数だけを気にかけて戦っているのだろうか。好敵手よりも昨日の自分よりも強くなりたいと思いながら、日々熱い棋譜を生み続けているのではないか。現代将棋は、バランスの時代である。相手のミスに誘われてバランスを崩しては、上達は望めない。

 興味深いのは22角成と早々に角損した時の相手の態度である。これはだいたい3つのタイプに分けられる。即投了するのが第1のタイプ。逆転の可能性はほぼないので当然とも言える。平気な様子で指し続けるのが第2のタイプ。弾丸ウォーズは駒損くらいで終わらないのでこれも自然。動揺をみせないことで逆に相手が動揺するのもよくあること。だが、数手指してみて局面の深刻さを悟り、やや時間差で投了する。実に人間らしい。第3のタイプは徹底抗戦、詰むまで絶対に投げない棋士だ。(投了を知らない)マシンの如く最後の最後まで戦い抜くのだ。相手もうっかりミスをしないとは限らない。このタイプはなかなか厄介ではある。

 さて、角得を果たした方は、局面をどう動かしていくべきだろう? (その考え方は?)将棋というゲームは、厳しい局面ほどに手が狭くなる傾向がある。逆にかなりよくなった局面では、手が広く、自分の好きなように指せる。角得後の局面は、無数の進め方、勝ち方が許される。角得の後は、香得もおまけでついてくる。その後、玉を右に悠々と囲うのもよい。狂ったように端から攻め込むことも有力。まるで何事もなかったように、普通の駒組みを始めたとしても、相手が追い込まれていくのは明らかだ。奥の手としては、投了する手だ。22角成をみても投了しない相手に対して、逆に投了してしまうという意表の一手! これも全くありえない筋ではない。(相手は酔っぱらいではないか?)というのが根拠となる読み筋で、上達を強く望むならばもっと手強い相手とすぐに指し始めるべきなのだ。
 目的は何か? ただ勝つことなのか?
「だったらじゃんけんでもよくない?」
 先生が昔言っていた言葉を思い出す。


 左角の席は既に取られている。逆サイドのコーナーをみつけて安堵する。番号札を四角いテーブルの角に置く。手前のスペースはやってくるコーヒーのためだ。
 角はどこでも人気だ。オセロでも、マンションでも、電車でも、カフェでも、将棋でも、ほとんど例外がない。家の近所にあった廃れた食堂は最近になって突然、「かど屋」という店名に変えたようだ。ついに角で勝負をかけることを決断したのだ。店の硝子窓に大きなもじで「かど」と書かれている。その光景を目にした時、僕はその店が角に建っていたことに初めて気がついたのだった。角にはそれだけの価値がある。かどや食堂、かどやカフェ、かどやうどん、角屋書店、角銀行、かどやローソン、角劇場、角文具屋、角寿司……。今までどれだけの角、かどやに巡り会ってきたことだろう。

 角に立つことは人間の防衛本能とも言える。例えばセンターに立った場合、四方八方から押し寄せてくる敵と戦うことは大変だ。一方、角に立てた場合は、そうした恐れは解消される。壁を背にして背水の陣から一人ずつ敵を片づけていけばいい。そうしてデュエルを制し続ければ、着実に勝利に近づいていくことが可能になる。数的不利の問題をポジション取りとデュエルによって解決するのだ。

 現代フットボールにおける得点の鍵を握るのはセットプレーだ。とりわけ多くのチャンスを生み出しているのが、コーナーであることは言うまでもない。ファールを犯さずとも、ゴールラインを割ることによってコーナーキックの権利は獲得できるのだ。今現在、我々の代表チームでは、そのチャンスを十分に生かし切れていないのではないか。我々は長期的視点に立って、もっと強いキッカーを見出すべき時にきているのではないか。組織の運営、システムの構築、若い年代や指導者の育成を含め、我々全体が取り組むべき課題は多い。しかし、そこに踏み込むことをせずして我々の明るい未来はないであろう。確かなビジョンの元に着実に進歩を遂げる他国にどんどん置いて行かれることは間違いない。我々の目標は近所の公園よりも遠い場所に、より高い次元にあったはずだ。強豪国に勝利しただけで満足したり、一喜一憂しているようでは、我々の本当の夢は永遠にかなうことはないだろう。批判を恐れることなく叫ぶ声が聞こえてくる。そんな酒場が、ほらすぐそこの曲がり角にもみえているではないか。

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カウンターにかける人

2023-07-01 17:39:00 | コーヒー・タイム
 今日は簡単に空きをみつけることができた。左に柱(壁)のあるカウンター席。最悪でも左右から挟まれることはない。間隔の狭いカウンターは苦手だ。人との距離が近すぎると落ち着かない。
 カウンターにかけるとコーヒーを飲みながら硝子の向こうの通り過ぎる人々の様子を眺めることができるようになる。しかし、これは同時に外部の人より観察される対象になることも意味する。自らを水族館の魚になったように思うこともできるだろう。

「いったいどんな人がかけているのか?」

 カウンター席を選ぶ人と言えば、まず最も多いのがおひとり様ではないだろうか。おひとり様が4人がけ席を選ぶのは、よほど席が空いている状況でもない限りはためらわれることである。そうなると選ぶのは2人がけの席かカウンターだ。荷物が大きい時には、カウンター席は少し困る。2人がけの席なら、対面の1席を荷物専用に使うプランを持てるが、カウンター席だとそうはいかない。最悪の場合、地べたに直接置くことにもなるだろう。その場合、地べたが水浸しになっていたとしたら、より一層最悪の事態となる。十分に光の届かない地べたの状態を瞬時に見極めることは簡単ではない。ならば、あとは運任せ、神頼みである。(どうか穏やかな地べたでありますように)

 おひとりさまに次いでカウンター席を選ぶことが多いのは2人で店に訪れた場合ではないか。夫婦や恋人同士、仲のよい友達と肩を並べてコーヒーを飲むのも悪くないではないか。もしも両者の関係が愛し合う者同士のように親密ならば、肩はより近くに寄り添える方が望ましいだろう。2人の距離が近づけるように、考えられたデザインを持ったカフェも多いのかもしれない。同じ2人であっても商談や打ち合わせなどの場合は、事情が異なる。その場合は肩を近づけることよりも、顔を向かい合わせることの方が重要だ。言葉をちゃんと理解し誤解のないようにするためには、相手の表情を読み取ることも大事になってくるからだ。

 3人4人で来店した場合、よほどのことがない限りは、カウンターでははなく4人がけの席を探すのが自然ではないだろうか。横一線に広がりすぎては、お互いの顔が見えないばかりか声も届きにくい。間に柱や壁が挟まった場合などは、もはや全く別の空間だ。そうなってしまえば一緒に来店した意味も失われかねない。これは5人以上で訪れた場合でも同じだろう。テーブル席のよいところは、席を勝手に寄せ合わせて自在に拡張できるところでもある。2人席もくっつけることによって、4人6人8人とどんどん大きくしていくことが可能だ。大家族、親戚一同が同席することも絵空事ではない。


 どこか懐かしいような夢だった。カーテンを広げるともう飛んでいた。雀と遊ぶくらいなら危険はないさ。少しと思っていたが、気がつくと高く飛んでいた。また昔みたいにできるだろうか。遠くにある光がきれいだ。都市の光にどんどん近づいた。高度を下げると天井はなく店の中にいた。自分の名前はあるだろうか。印鑑の付け根だと思っていたそれは、菓子の集合にすぎなかった。
 駆け込みの若者が車内に吸い込まれた。それが終点ではないという証明だったが、僕はなぜか降りてしまった。スーパーではサボテンが挟まってかごが取れなかった。仕方なく外に出ると太陽の光が影響したのか、サボテンの姿勢に変化が見えた。新しくできた知恵の輪に僕は取り組まされていたのだろうか。関心を持った人たちが、僕の仕草を真似て続いた。
「いっらしゃい」
 物販コーナーの客はまだ迷っていた。田原さんがやってきてナイロン手袋を乱暴に投げた。ホトトギスにかけてきてと命令調で言う。忙しくなる朝にどうして? 顔が俺は忙しいと言っている。外に出て鳥に当たる。君がホトトギス?


 カウンターにかける人は店内に背を向けている。もしも店を世界と考えた場合、世界に背を向けて存在していることになる。仮にそうだとすると覚悟のある姿勢だと言える。視線が外なら心はどこにあるだろう。心身のバランスを保つことは、それなりに難しくも思える。外の者と交わることもできなれば、内の世界に溶け込むこともできない。

「自分はどこにいるのだろう?」

 カウンターにかける人は、いつでも不安と共にあるのだ。パソコンを立ち上げ、パソコン通信によって月や火星と交信を試みる。あるいは、文庫本やハードカバーを広げ、異世界とつながろうとする。カウンター上の孤独からみて、そうした仕草は誠に人間らしくナチュラルな抵抗に違いない。

「自分で世界を持てば周りは関係ないからさ」

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いなりの消えたうどん屋さん/追い出される前に

2023-06-30 15:52:00 | コーヒー・タイム
 どうしてうどん屋さんのいなりはいつも売り切れてしまうのだろう。仕込みが足りないのか、見込み違いなのか。人気がありすぎるためか。いなりの大食いが頻繁に訪れるのか。売り切れごめんのスタンスを取っているのか。(その時はその時だ)作る時間が足りないのか、たくさん作るのが面倒なのか。あるいは、店主は食品ロスの問題には熱心であって、絶対に余らせてはならないと思っているのだろうか。原因はだいたいこのいずれかの中にあるはずだ。

(たぬき&いなり)
 それが僕の購入した食券だ。
 売り切れにした(消した)はずのいなりの食券が出てきたと厨房内は騒然となった。ゴースト現象か?

「消したけどな……」
 店主はまだ腑に落ちない表情を浮かべていた。
「どうしましょう?」
 ないものはもうない。おかんが代案を問いかける。
 うーん……。
「おにぎり」
「もうこのままでええわ」

 本来はおにぎりに変更するとプラス20円を払わなければならないが、今回はそれについては免除するという意味だ。あるはずだったいなりが食べられなくなったというのに更に追加料金を払って別のものにしなきゃならないのかという気持ちが僕の方にも多少あって、おかんの好意を当たり前のように受け入れてしまう。
 しまったな……。えび天トッピングにしてもらえばよかった、とおにぎりが出てきてから後悔した。おにぎりは、いなりのように一口では食べられない。


 人だかりができて講談師を囲んでいた。
 積年の恨みを晴らそうと雇った刺客共は集まったか。しかしよくもこう早撃ちばかりを集めたもんじゃねえか。それで始末は済んだのか。それが駄目だったって。速いは速いが当たりゃしない。全く鞍替えしやがれってもんだい。全く年中無休ってのは忙しいもんで、お前さんたちは年がら年中腕比べに夢中だ。何でも二八の蕎麦が引きが強いようで。チャカチャンチャンチャン♪ お前さんは光速で、お前さんはチーター並、お前さんときたら青春以上だって。馬鹿野郎が。ちゃんと数字で示せってんだ。視聴率なんてあてにならないもんじゃございませんぜ。しかし、トーナメントってのはいつ見てもわくわくするね。飛ぶ鳥を落とすような勢いの奴がいるが、次元が違うもんでも見せられてるのかね。で、今度がどっちが勝った? またあんたか!
「お前さん、どこで修行なさったい?」
 えーっ、もう人数分できたって! ちょうど今夜は大晦日っていうからこいつはびっくらほいの仕事が早いや。来年も平和でありますように。パチパチパチパチ♪


 どうして人はカフェなんかに行くのだろう。どうせ帰るのに。どうしてコーヒーなんか頼むのだろう。どうせ冷めてしまうのに。どうして平気な顔して談笑していることができるのだろう。どうせみんないなくなるのに。知らないのか。それとも知っていて知らない振りをしているのか。だったらそれは集団ヒステリーか何かだろうか。どうせと思ってしまうと、心身を前に運ぶことが難しくなってしまう。それでも注文したコーヒーは自分で運んで行かなければならない。(それがセルフカフェというものだ)

「まだいます!」

 明かりの消えた銭湯の中で叫んだことがある。富士山も眠りについた静けさの中で清掃員の目が光っていた。あるいは猫だったかもしれない。閉じ込められた記憶は簡単に消えるものではない。

(ごゆっくりどうぞ)

 言葉を言葉通りに受け取ることには危険が伴う。例えばそれが閉店間際の店内であれば……。アディショナルタイムが短ければ主審に訴えたくなる。けれども、店員は審判とは違うことに注意が必要だ。(誰だって早く家に帰りたい)

 帰れ帰れ はよ帰れ♪
 ほれほれ帰れ とっとと帰れ♪
 いつまでもくつろいでんじゃねえ♪
 帰れ帰れ もれなく帰れ♪
 笑顔の押し売りはおしまいだ♪
 いっぱい飲んだら さっさと帰れ♪
 ほれほれ帰れ とっとと帰れ♪
 みんな帰って♪ 私たちを解放しておくれ♪
 帰れ帰れ はよ帰れ♪
 もういい加減に 追い出しちゃうぞ♪

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左利きなら天才だったかもしれない

2023-06-29 19:04:00 | コーヒー・タイム
 ストローの先はぐにゃっと曲がったタイプ。氷はきめ細かい。パーティションの汚れが近づいてみると目立つ。椅子は脚が高くかけ辛いようで下に横木が入っていて案外大丈夫。思っていたよりずっと柔らかい。シロップは見慣れないメーカーのもの。カウンターの奥行きはかけてみると随分広い。あると思い込んでいた電源はない。

「かけてみないとわからない」

 勘が働いて合っている場合もあるが、全く的外れであることも多い。街でも家でも実際に住んでみないとわからないことは多い。仕事や職場も同じだろう。実際に深く潜入してみてはじめてわかる。想像のつくところがある一方で、全くかけ離れているところもあるものだ。アイスコーヒーは以前飲んだことのあるホットと比べて随分とまずく感じる。まさかシロップがまずいのか。そうでなければコーヒーそのものがまずいのだ。


 夢の中では友人の家にいて連ドラの再放送を見ていた。大してすることのない暇な家だった。本棚には神々のアドリブ、見たことのある個包装の高級菓子があった。目が覚めると毛布の中だった。誰かが毛布をかけたのだ。
「おはようございます」
 警備員は外国人だった。彼は夕べ起こさなかったのだ。帰るところがなかったので助かった。自分の席に戻ってみるとポメラも鞄も無事だった。


 店の前の通りは坂道になっている。この店は坂道に建てられているのだ。東へ行く人は少し速く、西へ行く人は少し遅くなっている。商店街の果てなので、天井の照明や人々の表情にも少し陰りが見える。次の一口のことを考えると憂鬱だ。そういう状態になったら外食(飲食)は不幸だ。次の一口が楽しみでわくわくしている。それならどれほどハッピーか。

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