秋が夏を一気に追い抜こうと風を吹かせていた。「いけない」逸る心を抑え切れない暴走を、「かけては、駄目」母の葉は止めようとするが、うれしさのあまり子の葉はどうしても風に乗ってしまうのだった。自分の庭から道へと渡った子の葉の回転は、ついに猫の昼寝にぶつかって止まった。#twnovel
「出ておいでよ」
風呂にでも入ってからおいでと留守電にメッセージが残されていた。日曜日だというのにみんな働いているというのだ。僕も行って、この辺でやる気をみせておかなければ、ここ数日の遅刻や度重なる無断欠勤のせいで、首を切られてしまうかもしれない。日曜日だけの給料がもらえるかもしれない。あるいは、日曜日ということで何ももらえないとしても、やはり姿を見せることにそれなりの意味はあるはずだ。とはいえ日曜日なのだから、慌てて出かける必要はない。ゆっくりと身支度を整えて、午後一番にでも出かければ十分だと思われた。
「いいんだよ」
もたもたとしていると母が言った。遠慮なく入ればいいと言う。
シャワーで体を流すと勢いよく湯船に飛び込んだ。水面に顔をつけて、恐れず中に入ってゆく。広い海を想像して、左右に気を配りながらゆっくりと手を回す。湯の中で息を吐き切ると、顔を左に傾ける。顔が抜け出した時を感じながら、息を吸い込む。その調子、大丈夫、合っている。この小さな積み重ねが、いつか僕をスイマーに育て上げるだろう。そうだ、今度は右……。けれども、傾けようとしても体が動かない。今日は本当に日曜日なのだろうか。この体は、本当に僕の体なのだろうか。死の予感に苛まれ、どうにか逃れようと苦しんでいる内、気がつくと体は左に反転して息を吸っていた。この日わかったのは、左側でしか息継ぎは成功しないということだった。考えようによっては、また左側を極めさえすれば、問題などないのではないか。
(日曜日まで出向かなければならないのか)
風呂上りのまどろみの中で、もう一度考える。このひと時の幸福を打ち破ってまで、社会の中に出て行く価値はどこにあるのだろうか。この心地よく豊かなまどろみに勝るものが、どこの世界に……。ゆっくりと意識が離れていく、自分は再び不可能なことなんて何一つない英雄的な陣地の中に帰っていくのだ。日曜日、日曜日……。
「おいでよ」
けれども、もう一度あの優しいメッセージが、ベッドの底からよみがえってくる。
水泳は、あるいは学問は、あるいは武道というものは、突然に完成するものではない。ゆっくりと積み上げていかなければならない。さあ始めと言ってすぐにできるものではないだから、僕は戻らなければならない。仕事をしている方が、ずっと楽だ。その方がいい。そうだ、身支度を始めよう。
「いつもいいの履いてるね」
どれだけ僕の物を知っているというのか。褒められるのは嫌ではなかったが、こそばゆかった。
「僕のだったかな?」
「お父さんのよ」
爪先のだらりと余った部分を何重も巻き上げなければならなかった。それは歩く内にまたずり落ちてしまうかもしれない。その心配と不自由さと、それ以外の気に入っている部分、褒められたことなどを考え合わせて、僕は迷っていた。この服でいいのか、僕の選択は誤ってはいないか。階段を上がって、部屋の中には猫がいた。
「ぼちぼち出ないと」ハルが口を動かして何か言っている。
「近頃どんどん言葉を覚えてね」
「何をしているの?」
ハルは訊いた。早くするように迫っているのかもしれなかった。
「ハルは賢いんだね」
「賢いってなあに?」
「色んなことに疑問を持ったり、新しいことをどんどん覚えていくことだよ」
身支度を整えるのを手伝ってくれた母は、猫には目を留めず部屋の隅々を見渡していた。その本棚の果てに、気になるタイトルを見つけたのかもしれない。そして、突然、顔を曇らせた。
「春には出て行ってもらわなければ」
もう僕の居場所はなくなると言った。お姉ちゃんが、家賃を納めてくれることになってね。僕の部屋には母が住むと言い、少なくとも部屋を入れ替える必要があると言った。どうしてそんなことになるのだ。
「家の構造上そうなるのよ」
ハルが、びくりとして階段を下りていった。
「ガルビッシュ、ガルビッシュ……」
また、ハルが新しい言葉を覚えた。褒めてあげようと思っていると、遥か彼方で音のないピアノを弾いているハルが見えて驚かされた。
「ガルビッシュ。ああ、どうもうまく言えないな」
と言っているのはおじいさんだった。間違っておじいさんを褒めてしまうところだった。
おじいさんは野球の話、セリーグとパリーグの話を始めたけれど、僕にはうまくついていくことができなかった。ブンデスリーグの話にうまくつなげることがてきればよかったけれど、その道筋がなかなか見つからなかった。もしうまく見つけることができたとしても、ブンデスリーグの何を語ればいいのだろう。昨夜の結果を、僕はまだ知らずにいた。
日曜日とはいえ、そろそろ出発しなければ……。
(ありがとう)
職場に着いたら、彼にそう伝えよう。それだけは、伝えたかったのだ。
「あっ!」その時、
行って来ますの先にある道筋に、突然大きな壁が現れた。その壁は壊すことも乗り越えることもできず、ただ冷たく行き止まりを告げるだけだった。
「会社は東京じゃないか」
どうして歩いて行けるなどと思ったのだろう。こみ上げてくる恥ずかしさに、よろめき、その場に崩れ落ちそうになった。今までの、長い長い迷い、準備に追われた時間は、何だったのだろう。
「that souds great !」
兄が、ハルに新しい言語を教え込んでいた。
「ここはインタビュー部分だから、カンマが入るんだ」
ハルはうんうんと口を動かしている。
風呂にでも入ってからおいでと留守電にメッセージが残されていた。日曜日だというのにみんな働いているというのだ。僕も行って、この辺でやる気をみせておかなければ、ここ数日の遅刻や度重なる無断欠勤のせいで、首を切られてしまうかもしれない。日曜日だけの給料がもらえるかもしれない。あるいは、日曜日ということで何ももらえないとしても、やはり姿を見せることにそれなりの意味はあるはずだ。とはいえ日曜日なのだから、慌てて出かける必要はない。ゆっくりと身支度を整えて、午後一番にでも出かければ十分だと思われた。
「いいんだよ」
もたもたとしていると母が言った。遠慮なく入ればいいと言う。
シャワーで体を流すと勢いよく湯船に飛び込んだ。水面に顔をつけて、恐れず中に入ってゆく。広い海を想像して、左右に気を配りながらゆっくりと手を回す。湯の中で息を吐き切ると、顔を左に傾ける。顔が抜け出した時を感じながら、息を吸い込む。その調子、大丈夫、合っている。この小さな積み重ねが、いつか僕をスイマーに育て上げるだろう。そうだ、今度は右……。けれども、傾けようとしても体が動かない。今日は本当に日曜日なのだろうか。この体は、本当に僕の体なのだろうか。死の予感に苛まれ、どうにか逃れようと苦しんでいる内、気がつくと体は左に反転して息を吸っていた。この日わかったのは、左側でしか息継ぎは成功しないということだった。考えようによっては、また左側を極めさえすれば、問題などないのではないか。
(日曜日まで出向かなければならないのか)
風呂上りのまどろみの中で、もう一度考える。このひと時の幸福を打ち破ってまで、社会の中に出て行く価値はどこにあるのだろうか。この心地よく豊かなまどろみに勝るものが、どこの世界に……。ゆっくりと意識が離れていく、自分は再び不可能なことなんて何一つない英雄的な陣地の中に帰っていくのだ。日曜日、日曜日……。
「おいでよ」
けれども、もう一度あの優しいメッセージが、ベッドの底からよみがえってくる。
水泳は、あるいは学問は、あるいは武道というものは、突然に完成するものではない。ゆっくりと積み上げていかなければならない。さあ始めと言ってすぐにできるものではないだから、僕は戻らなければならない。仕事をしている方が、ずっと楽だ。その方がいい。そうだ、身支度を始めよう。
「いつもいいの履いてるね」
どれだけ僕の物を知っているというのか。褒められるのは嫌ではなかったが、こそばゆかった。
「僕のだったかな?」
「お父さんのよ」
爪先のだらりと余った部分を何重も巻き上げなければならなかった。それは歩く内にまたずり落ちてしまうかもしれない。その心配と不自由さと、それ以外の気に入っている部分、褒められたことなどを考え合わせて、僕は迷っていた。この服でいいのか、僕の選択は誤ってはいないか。階段を上がって、部屋の中には猫がいた。
「ぼちぼち出ないと」ハルが口を動かして何か言っている。
「近頃どんどん言葉を覚えてね」
「何をしているの?」
ハルは訊いた。早くするように迫っているのかもしれなかった。
「ハルは賢いんだね」
「賢いってなあに?」
「色んなことに疑問を持ったり、新しいことをどんどん覚えていくことだよ」
身支度を整えるのを手伝ってくれた母は、猫には目を留めず部屋の隅々を見渡していた。その本棚の果てに、気になるタイトルを見つけたのかもしれない。そして、突然、顔を曇らせた。
「春には出て行ってもらわなければ」
もう僕の居場所はなくなると言った。お姉ちゃんが、家賃を納めてくれることになってね。僕の部屋には母が住むと言い、少なくとも部屋を入れ替える必要があると言った。どうしてそんなことになるのだ。
「家の構造上そうなるのよ」
ハルが、びくりとして階段を下りていった。
「ガルビッシュ、ガルビッシュ……」
また、ハルが新しい言葉を覚えた。褒めてあげようと思っていると、遥か彼方で音のないピアノを弾いているハルが見えて驚かされた。
「ガルビッシュ。ああ、どうもうまく言えないな」
と言っているのはおじいさんだった。間違っておじいさんを褒めてしまうところだった。
おじいさんは野球の話、セリーグとパリーグの話を始めたけれど、僕にはうまくついていくことができなかった。ブンデスリーグの話にうまくつなげることがてきればよかったけれど、その道筋がなかなか見つからなかった。もしうまく見つけることができたとしても、ブンデスリーグの何を語ればいいのだろう。昨夜の結果を、僕はまだ知らずにいた。
日曜日とはいえ、そろそろ出発しなければ……。
(ありがとう)
職場に着いたら、彼にそう伝えよう。それだけは、伝えたかったのだ。
「あっ!」その時、
行って来ますの先にある道筋に、突然大きな壁が現れた。その壁は壊すことも乗り越えることもできず、ただ冷たく行き止まりを告げるだけだった。
「会社は東京じゃないか」
どうして歩いて行けるなどと思ったのだろう。こみ上げてくる恥ずかしさに、よろめき、その場に崩れ落ちそうになった。今までの、長い長い迷い、準備に追われた時間は、何だったのだろう。
「that souds great !」
兄が、ハルに新しい言語を教え込んでいた。
「ここはインタビュー部分だから、カンマが入るんだ」
ハルはうんうんと口を動かしている。