「姉ちゃんの代わりに歌を作りなさい」
と母が言って、僕は追い立てられるようにして屋根の上に上がることになった。どうしてかというと、姉には大事な子育ての仕事があるからで、僕にはそれ以上にもそれ以外にも何も仕事がないからだった。ここのところの雨降り続きで靴はまだ2足とも濡れていて、どこにも行く当てがなかったので、ちょうどよいと言えばちょうどよかったが、屋根の上から見えるものといえば、変わり映えのしない雲ばかりで、どこから歌を作り出せばいいというのか。変わり映えしない、白い雲が、強烈な個性を持って流れていった頃ならば、歌は考えるよりも早く、もくもくと浮かんできて、すぐにメロディーにも乗ったかもしれないけれど、今遠く頭上にある雲は、ただ雨をじっと蓄えながら、まるで動こうともしないのだ。姉に比べて、力のない僕が屋根の上にいる間だけ、どうか、雨の代わりに、歌の雫を落としてはくれないか。あなたたちに交じって浮いても、遥かに僕は真っ白だ。
疲れちゃったよ
幻たちに囲まれて
何を持っても荷が重い
電話を取ると男は聞いたこともない名前を堂々と名乗った。
「どういうことだ?」
男はいたずら電話の抗議のための留守電話だと主張した。話がよくわからないので、リモコンを取ってテレビのボリュームを下げたが、下げても下げても音は小さくならない。ウイルスに感染しているのだ。
「ウイルス電話だ」
「それなら仕方がない」
と言って男は謝った。
疲れちゃったよ 疲れちゃったよ
姉は畑で子育てに励んでいる。車庫に車があるところをみると、兄はまだ眠っているようだった。
居間に戻ると亡くなった父が座布団の上に座っていた。
「寿司はまだか?」
「帰ったんじゃない?」
家に誰もいないと思って帰ったのかもしれない。いないと帰る式の寿司じゃないかと僕は言った。父は、納得がいかない様子であぐらをかいていた。湯飲みから立ち上がる湯気の直線が、父の額を貫いて抜けていく。
「もういいって」
死んだ後に気を遣わなくても。
「何か教わってないことはないかな?」
突然言われても、思い当たる節がなかった。父の周りに誰も集まってくる者もなく、僕は耐え切れなくなって、屋根の上に上がった。
雲はすっかり小魚のように小さくなって、家路を急ぐように激しく空を走っていた。あの悠然と構えていた大きな雲たちが、それぞれに分裂して姿を変えたのか。あるいは、すこし僕が留守にした間に、空の中で急速な世代交代が起こったのだろうか。けれども、白い魚たちは、自分の家にたどり着くことができず、互いにぶつかり、交わり、離れたり、近づいたりしながら、壮大な迷子を演じているようだった。
疲れちゃったよ 疲れちゃったよ
親しいものは 遠く遠く
迷える雲が吐き出すものは
夕焼けよりも苦い薬
打ちのめされて何日眠れば
新しい私は訪れるだろう
「寿司が来たぞ!」
ついに寿司が来たと父はうれしそうに財布から万札を出して駆けて行った。
「大きいのしかないんだが」
寿司屋は少し困った様子で万札を受け取ると腰につけた鞄から釣銭を取り出して数え始めた。1枚、2枚、と数えたところで千円札が500円札に変化した。するとそこからは次々と500円札が連なった。
「あれっ?」
寿司屋は札を数える手を止めた。
「お恥ずかしい」
うまくお釣りが返せずに、詫びた。気を取り直すと再び千円札を探して紙をめくっていく。ちゃんと持ってきたはずなんだが。今度は札の下から、透明なビニール袋が出てきた。中にはザリガニが入っている。
動いている!
汚い!
中に小さな蝿が入っているではないか。
「動いた!」
蝿が動いた、と父が言った。小さな動きも、父は見逃さなかった。
「教えてないことがあったな」
父のテントを狙って刺客たちが送り込まれた。しかし、たどり着いた時には既に父はその場にはいなかったのだ。
「何をしている! 俺はまだ風上にいるぞ!」
刺客たちをあざ笑うかのように、風に乗って父の声が響く。父がいないと知れると一団に激しい動揺が広がった。平地に下りているかと思った父が、まさか風上にいるとは。敵が恐怖に足を取られている間に、父は軽やかに山を駆け上がった。ようやく追っ手が組織され、道を上り始めた頃には、大地はすっかり髭を生やしていて、次々と追っ手の足を滑らせた。父の仕掛けた巧妙な罠だった。刺客たちは電気シェーバーを道に這わせながら、慎重に道を上がらなければならなかった。そして、そのために使われた体力と風上にいるという父への恐れから、既に勝負は決していたようなものだった。巧妙に髭づけされた一本道に誘い込むと、次々と敵を斬り倒していった。
「さあ、これを受け取れ!」
父から譲り受けた箱の中のケーキは、すっかり形が壊れていた。最初から壊れていたのか、投げた時に壊れたのかはわからない。欠けたチョコや、部品を手にして、フードコートの中で再生を試みる。靴べらはどうも関係なさそうなので捨てることにした。他にも壁に刺すような部品があったが、壁に刺したとしても、その後がさっぱりわからないので、捨てた。他にも、大事そうに見えても、どうしてもよくわからない部品があるので、捨てる。
歩いているといつの間にか資料館の中に入っていた。その中は、有料だったのに。突然、昔ここに来たことがあるという記憶が蘇って、後戻りした。既に少し入ってしまったという罪悪感を引きずりながら歩いていると動物広場に来ていた。猛獣の気配を背中に感じて振り返ると、猛獣と目が合った。
(お腹空いたよ)
僕は命を大事に思い、組み立て途中のケーキを置いていくことにした。
(これで助けてね)
蓋を取って、そっと地面に置いた。獣の目は、まだこちらに向いたままだ。
「ほら、ケーキだよ」
疲れちゃったよ
幻たちに囲まれて
どこに行っても気が遠い
雲が歌に変わることを願いながら待っていた。すっかり夜になったというのに、周りは明るいままだった。夜になったから、むしろ明るくなったようでもあった。
1つ気づいたのは、屋根が厚紙でできているということ。2つの大きな厚紙が、載せてあるだけなのだった。その1つが少しずれていることを見つけて、手で押し動かしてみると中の様子が筒抜けだった。
家族みんなでテーブルを囲み、寿司をつまんでいる。
どうやら僕の分まではなさそうだ。宿題を早く片付けなければ……。
と母が言って、僕は追い立てられるようにして屋根の上に上がることになった。どうしてかというと、姉には大事な子育ての仕事があるからで、僕にはそれ以上にもそれ以外にも何も仕事がないからだった。ここのところの雨降り続きで靴はまだ2足とも濡れていて、どこにも行く当てがなかったので、ちょうどよいと言えばちょうどよかったが、屋根の上から見えるものといえば、変わり映えのしない雲ばかりで、どこから歌を作り出せばいいというのか。変わり映えしない、白い雲が、強烈な個性を持って流れていった頃ならば、歌は考えるよりも早く、もくもくと浮かんできて、すぐにメロディーにも乗ったかもしれないけれど、今遠く頭上にある雲は、ただ雨をじっと蓄えながら、まるで動こうともしないのだ。姉に比べて、力のない僕が屋根の上にいる間だけ、どうか、雨の代わりに、歌の雫を落としてはくれないか。あなたたちに交じって浮いても、遥かに僕は真っ白だ。
疲れちゃったよ
幻たちに囲まれて
何を持っても荷が重い
電話を取ると男は聞いたこともない名前を堂々と名乗った。
「どういうことだ?」
男はいたずら電話の抗議のための留守電話だと主張した。話がよくわからないので、リモコンを取ってテレビのボリュームを下げたが、下げても下げても音は小さくならない。ウイルスに感染しているのだ。
「ウイルス電話だ」
「それなら仕方がない」
と言って男は謝った。
疲れちゃったよ 疲れちゃったよ
姉は畑で子育てに励んでいる。車庫に車があるところをみると、兄はまだ眠っているようだった。
居間に戻ると亡くなった父が座布団の上に座っていた。
「寿司はまだか?」
「帰ったんじゃない?」
家に誰もいないと思って帰ったのかもしれない。いないと帰る式の寿司じゃないかと僕は言った。父は、納得がいかない様子であぐらをかいていた。湯飲みから立ち上がる湯気の直線が、父の額を貫いて抜けていく。
「もういいって」
死んだ後に気を遣わなくても。
「何か教わってないことはないかな?」
突然言われても、思い当たる節がなかった。父の周りに誰も集まってくる者もなく、僕は耐え切れなくなって、屋根の上に上がった。
雲はすっかり小魚のように小さくなって、家路を急ぐように激しく空を走っていた。あの悠然と構えていた大きな雲たちが、それぞれに分裂して姿を変えたのか。あるいは、すこし僕が留守にした間に、空の中で急速な世代交代が起こったのだろうか。けれども、白い魚たちは、自分の家にたどり着くことができず、互いにぶつかり、交わり、離れたり、近づいたりしながら、壮大な迷子を演じているようだった。
疲れちゃったよ 疲れちゃったよ
親しいものは 遠く遠く
迷える雲が吐き出すものは
夕焼けよりも苦い薬
打ちのめされて何日眠れば
新しい私は訪れるだろう
「寿司が来たぞ!」
ついに寿司が来たと父はうれしそうに財布から万札を出して駆けて行った。
「大きいのしかないんだが」
寿司屋は少し困った様子で万札を受け取ると腰につけた鞄から釣銭を取り出して数え始めた。1枚、2枚、と数えたところで千円札が500円札に変化した。するとそこからは次々と500円札が連なった。
「あれっ?」
寿司屋は札を数える手を止めた。
「お恥ずかしい」
うまくお釣りが返せずに、詫びた。気を取り直すと再び千円札を探して紙をめくっていく。ちゃんと持ってきたはずなんだが。今度は札の下から、透明なビニール袋が出てきた。中にはザリガニが入っている。
動いている!
汚い!
中に小さな蝿が入っているではないか。
「動いた!」
蝿が動いた、と父が言った。小さな動きも、父は見逃さなかった。
「教えてないことがあったな」
父のテントを狙って刺客たちが送り込まれた。しかし、たどり着いた時には既に父はその場にはいなかったのだ。
「何をしている! 俺はまだ風上にいるぞ!」
刺客たちをあざ笑うかのように、風に乗って父の声が響く。父がいないと知れると一団に激しい動揺が広がった。平地に下りているかと思った父が、まさか風上にいるとは。敵が恐怖に足を取られている間に、父は軽やかに山を駆け上がった。ようやく追っ手が組織され、道を上り始めた頃には、大地はすっかり髭を生やしていて、次々と追っ手の足を滑らせた。父の仕掛けた巧妙な罠だった。刺客たちは電気シェーバーを道に這わせながら、慎重に道を上がらなければならなかった。そして、そのために使われた体力と風上にいるという父への恐れから、既に勝負は決していたようなものだった。巧妙に髭づけされた一本道に誘い込むと、次々と敵を斬り倒していった。
「さあ、これを受け取れ!」
父から譲り受けた箱の中のケーキは、すっかり形が壊れていた。最初から壊れていたのか、投げた時に壊れたのかはわからない。欠けたチョコや、部品を手にして、フードコートの中で再生を試みる。靴べらはどうも関係なさそうなので捨てることにした。他にも壁に刺すような部品があったが、壁に刺したとしても、その後がさっぱりわからないので、捨てた。他にも、大事そうに見えても、どうしてもよくわからない部品があるので、捨てる。
歩いているといつの間にか資料館の中に入っていた。その中は、有料だったのに。突然、昔ここに来たことがあるという記憶が蘇って、後戻りした。既に少し入ってしまったという罪悪感を引きずりながら歩いていると動物広場に来ていた。猛獣の気配を背中に感じて振り返ると、猛獣と目が合った。
(お腹空いたよ)
僕は命を大事に思い、組み立て途中のケーキを置いていくことにした。
(これで助けてね)
蓋を取って、そっと地面に置いた。獣の目は、まだこちらに向いたままだ。
「ほら、ケーキだよ」
疲れちゃったよ
幻たちに囲まれて
どこに行っても気が遠い
雲が歌に変わることを願いながら待っていた。すっかり夜になったというのに、周りは明るいままだった。夜になったから、むしろ明るくなったようでもあった。
1つ気づいたのは、屋根が厚紙でできているということ。2つの大きな厚紙が、載せてあるだけなのだった。その1つが少しずれていることを見つけて、手で押し動かしてみると中の様子が筒抜けだった。
家族みんなでテーブルを囲み、寿司をつまんでいる。
どうやら僕の分まではなさそうだ。宿題を早く片付けなければ……。