「マスター、ビール」
「そういったのはちょっと……」
「ビアー」
「いやー」
「ビアーァア♪」
「今やってないんですよ」
「スーパードライを」
「ないです」
「スッパードゥラゥアーイ♪」
「申し訳ないです」
「じゃあ一番搾りでいいよ」
「ないよ」
「えっ? 麒麟は来てないの?」
「もう終わってますよ」
「じゃあもういいよ。モルツくれる」
「お客さんもしつこいね。あんた潜入じゃないの?」
「いいよ。負けたよマスター」
「わかってもらえましたか」
「サイダーを」
「うちはスプライトになります」
「じゃあそれでいいよ」
「お客さん、仕事の帰りかい?」
「まあ一応ね」
「いいじゃないですか。みんな仕事がないって言ってますよ」
「ああ。全く酷い時代だ」
「はい。スプライト」
「ありがとう」
俺の仕事は夜の街に出て用もないのにふらふらしているような奴を見つけては家に帰るように呼びかけることだ。無視して行く者、素直に耳を傾ける者、ふらふらしているように見えて芯の通った者、人は様々だ。呼びかけに真っ向から反論してくる者もいるが、だいたいそういう奴らに限って足下は少しふらついている。俺は根気強くお説教じみたことを言い聞かせて、奴らの気持ちを変えようとする。俺の言葉はだいたい響くことはない。俺自身が完全に自分の言葉を信じていないからだ。
だが、何度も繰り返し念仏のように唱えることで、馬鹿らしさが不思議な共感に結びつくことがある。家に帰って行く人々の顔はどこか悲しげだ。街の空気が恋しいのだろう。
こんな仕事、早くなくなってしまえばいいと思う。
俺にはまだ新しいシナリオがあるのだ。
スプライトの泡が、夜明けの星のように消えていく。
「マスター、もう1杯もらえる?」