子供の頃、ポケットに手を入れていて怒られた記憶がある。ポケットが悪いのか。ポケットがある服を作った人が悪いのか。そうではない。時と場合によるのだ。マナーとしてよくない場面があるというだけのことだ。ポケットに手を入れながら接客しない。それは接客の常識とされている。けれども、ポケットは便利だ。ペンやあめ玉などちょっとした物を収納することができる。鞄ほどではないが、最低限の収納力があるのは魅力だ。ポケットのあるシャツが好きだ。ポケットに手を入れて歩くのがずっと好きだった。気取っているというわけではない。
今日はポケットに手を入れて歩こう。そういう気分の時がある。例えば、風が強い時だ。暴走自転車が横をかすめて走り去る時。手を振って歩くような元気のない時だ。
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信号のない三叉路だった。停止線の手前に止まった車は、いつまで経っても左折できないでいた。車はどこかの信号のタイミングによって途絶えるかもしれない。人通りとなると18時辺りではなかなか厳しい。途絶えないとなると、人が足を止めてくれなければアクセルは踏めない。言わば人の善意を待つしかない。あなたは大通りに出ようとする車を前に足を止めるだろうか? 横断歩道で立ち止まっても無視するように走り過ぎて行った車のことを思い出して、誰が止まるものかと思い横切っていくだろうか。だが、その車はあの時の車とは違うかもしれない。(ちゃんと横断歩道で止まってくれる車だっているのだ)転機となるのは誰か一人が足を止める時だ。そして、重要なのはそれに続く人が一人現れることだ。複数が止まり出せば、流石にそこにはそういう空気、(車を先に通そう)とする共同意識が生まれる。そうした空気を壊せばむしろモラルを問われるだろう。
その時、一人の女性が立ち止まった。僕は考え事をしながら道を横切った。(人も急には止まれないのだ)車が相手でも、お先にどうぞと言えるような、ゆとりのある人になりたいと思う。
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横が壁、前が窓の角席が取れて喜んでいた。隣人はパソコンと会話をする人だった。パソコン通信だ。ようやく天国に来たら鬼もいたという感じだ。席は選べるが隣人は選べない。家でも電車でも職場にしてもそうだ。大げさに言えばそれは運命だ。(もう1つの店にしてもよかったのに……)多少の後悔も押し寄せてくる。買ってしまった以上は、簡単に出て行くことはできない。引っ越すことは容易だ。家の引っ越しや転職と比べれば、カフェの席くらいいつでも変えることができる。(一時の辛抱ではないか)動かないのは、そのような気持ちがあるからだ。引っ越したとしても、その先の環境はわからない。隣人はもうすぐいなくなるかもしれない。だいたいそういう期待はするだけ無駄だ。順番は決まっていない。早く来た人が先に帰るというものでもないのだ。
気になり出すと気になってしまう。「あー はいはいはいはい お願いします おつかれさまです あーそれね あーそれがややこしい あーそうしといてください」相槌とか笑い声とか、全部が気になり始める。気にしすぎだろうか。平気な人はいいなと思う。好きな人のいびきは気にならないという人もいるという。僕は人間嫌いかもしれない。イヤホンをさしてボリュームを上げたとしても、打ち勝てない。突き抜けて気になるのだ。
そもそもここは電源まで用意されている。長く滞在してビジネスにも活用でき、またそのような利用が推奨されているのだ。
(ジェラシーかもしれない)ふとそのように思う。自分は誰とも深くつながっていないのではないか。隣人は離れた人とつながりながら、充実したビジネスライフをきっと送っている。パソコン通信へのジェラシー、エリート・ビジネスマンへのジェラシーだよ。
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夢の中ではトンネルに布団を持ち込んだ。あいつが来る前に抜ければよいと考えた。抜けられるだろうか。長いトンネルだった。誰かがものすごい力で肩を叩いた。恐ろしくて目を開けることができない。あいつか。その怪力には覚えがあった。凶暴で容赦がない。うそであれと願いながら、前に進んだ。進めている確信はなかった。今度はもっと強く肩を叩かれた。やっぱり来たのか……。半ば観念するように目を開けた。
そこはトンネルではない。どうやら自分の部屋のようだ。後ろを振り返っても誰もいない。外でもない。あいつもいない。
舌打ちが気になるのでやめるようにとチーフが言った。鼻水が出て苦しいのに、舌打ちのように聞こえているだけなのに。ここぞとばかりにブチ切れるとチーフは慌てて僕を引き留めた。会議室には役員の人たちが集合して、離職率を下げるための意見を出し合っていた。「君は残るんだろう」一人も手放したくはないようだった。皆の視線が一斉に僕の方に向いた。その時、全員が煙草をくわえて火をつけるのがわかった。
「僕、煙草大嫌いなんでやめます!」
チーフの態度に加えて、その光景は僕の心を決定づけた。
「やめろ! やめろ!」
今度は誰一人引き留めない。そこに愛煙家の団結を見た。忘れ物はない? ロッカーを空っぽにしてすぐにエレベーターを下りた。この駅ともさよならだな……。駅前を歩きながら、小さな縁が切れることを思って、少し切なくなった。